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中国帰国者への差別は日本語から

2013-06-23 00:15:50 | Weblog
中国帰国者への差別日本語からはじまる。
「あっ、中国人だ!」
と、友達から言われた。
うまくなったつもりの日本語でも、
発音に微妙なちがいがあったのだ。
さげすまれたようで、心に大きな傷を受ける。

中国からの帰国者に「中国残留者2世」がいる。
日本語、日本文化、習慣の知識をまったく持たずに、
中国から故郷の長野県に帰ってくるのが普通だ。
中国語しか話せない、日本語が話せない、
日本の文化がわからない状態で、
日本の社会で生きていく。

「中国残留者2世」が、学童ならば日本の学校へ通って、日本語を覚えていく。
「中国残留者2世」が、就労年齢になっていれば、就職するが、
日本語が話せないから、就職はうまくいかない。
結局、3Kの危険、汚い、きつい、の仕事しか見つからない。
社会の底辺で生きていくことになる。

このために、日本にはなじめずに、中国に帰る場合がある。
しゃべる日本語から、中国人とわかって差別される。
それに、文化が劣っていると思われて差別される。
中国からの帰国者というだけで、
いわれなき差別を受ける。

中国残留者2世」とは、つぎである。
満蒙開拓団の家族が、日本の敗戦が濃厚になって、
父は根こそぎ動員で召集される。
そして、ソ連の襲撃で倒れる。あるいは、
捕虜になってシベリアの強制収容所で、
重労働、飢え、凍死、発疹チフスで死亡する。

残された母と子どもは「地獄の逃避行」がはじまり、
襲撃、飢え、凍死、発疹チフス、集団自決にさらされる。
幼い子どもは死亡したり、生き延びるために中国人に売られる。
母も同様に、死ぬか、生き延びるために中国人と結婚して中国に留まる。
その母と中国人の父との間に生まれた子どもが、
「中国残留者2世」である。

一方、中国人に救われた子どもは、中国残留者1世である。
中国の家庭で、家事労働をこなし、中国語で育つ。
やがて成人して、中国人女性と結婚する。そして、
生まれた子どもが、「中国残留者2世」である。

この「中国残留者2世」の女性に話を聞くことができた。
中国から一家6人が、父の故郷である長野県に帰った。
父にとっても、まったく初めて見る日本である。
中国語しか話せない日本人の父と中国人の母、
それに、中国で生まれた3人の子どもたち、「中国残留者2世」。
女性はその一人で、長野県の「豊丘村」に帰ったのは3歳だった。

帰国の動機は「文化大革命」だった。
多くの人民を巻き込んだ粛清虐殺があった。
侵略国日本」に近い人たちがスパイ容疑で迫害され、
「日本人」の父も、人民公社の会計係の職を追われた。

日本への帰国には、中国人の「母」は猛反対した。
それに、母の親戚も猛反対だった。
「母」は日本をまったく知らない。
このまま中国にいれば、家もあるし、
なんとか生きていかれる。しかし、
「豊丘村」に行けば、職業も家もない。
家族は、だれも日本語を話せない。
「ゼロ」からのスタートではない。
「マイナス」からのスタートである。

中国の家と土地は売り払って日本に来たが、
蓄えは、日本の半年の生活で底をついた。
物価水準の違いが大き過ぎた。

家族6人は日本語、日本文化、習慣の知識を、
まったく持たずに日本の社会に飛び込んだ。
家族は日本語を一生懸命に学んだ。必死に。
広告の裏に、日本語を書いて覚えた。
3歳の女の子の日本語は上達してきた。

そして、言われたのが、
「あっ、中国人だ!」
当初は、「中国人」と「日本人」の違いを、
言っているだけの言葉だと思っていた。

しかし、日本での生活が長くなると、
中国からの帰国者の多くが、地位的にも経済的にも、
社会の底辺に位置づけられている現実を知るようになった。
それに、開発途上国の人は、文化的に低く、劣っているとみられた。
「あっ、中国人だ!」
さげすみに大きく傷ついた。
「中国人」という言葉を避けるようになった。

そして、日本で生きていくには、日本人になりきらないと、
社会の底辺で生活することになる。
底辺の生活はしたくない。

この「中国残留者2世」のことは、つぎに書いてある。
「中国残留者2世の幸せは?」、2012年7月15日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/e54c3361cac3f9c32dcfb5871a3b83c5

高校、大学では、友人にも、
「中国残留者2世」であることを明かさなかった。
「日本人」になりきろうとした。
「中国人」を消し去った。

しかし、偽(いつわ)ることに苦しみ、
「自分は何者?」と、葛藤した。
「自分は何者?」の「封印」を解くことが起きた。

英文学を学び、英語教師として長野県にもどった。
赴任した中学校に「中国残留者3世」が、
入学してくることになった。
「満蒙開拓団」を日本一多く送り出した長野県には、
「中国残留者」が帰ってくることが多い。

学習交流会の場で、ある教師が発言した。
「中国人の帰国者は、中国から来たことを知られまい、
と苦しんでいます。どうしたら救えるのでしょうか?」

「中国残留者2世」の女性は、
自分のことを言われているようで、
心臓がバクバクし、冷や汗が流れた。
そして、手を挙げて、
「私も帰国者です!」
と発言していた。

「中国残留者2世」の女性は続けた。
「先生方が帰国者の気持ちを理解しようと、
してくださっていることに、とても感激しました」
身体が震え、全身のが逆流したかのように鳥肌が立った、
「封印」が解かれた。長い間、かぶっていた「殻」が解き放たれた。

「中国残留者2世」の女性は、
「中国残留者3世」に、中国語で話しかけて、
日本復帰への力になっている。

中国帰国者に日本語、日本文化、習慣の知識を授けて、
日本の社会になじませること、日本復帰への力になること、
信濃教育会」は、これをすでに実行している。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の生存者が言うことがある。
「先生は夢のある満州だと言って、だまして送り込んだ」
「先生自身は満州に行かなかった」

満州は希望の大地ではなかった。そして、
ソ連に襲撃され、シベリアに抑留された。
友は死に、自分は死線をさまよいながら帰国できた。
遺族は、もっと納得できないだろう。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の「慰霊碑」がある。
拓友之碑」。長野県護国神社、松本市。

「元満蒙開拓青少年義勇軍斉藤中隊は、217名の隊員をもって編成。
昭和19年6月、斉藤義男中隊長指揮のもとに14、15才の少年達が、
肉親と別れ、遥か満蒙の広野に開拓の意気高く、時の国策を信じ大陸に渡る。
しかし、昭和20年8月、国境を突破したソ連軍の怒涛の進攻の前に、
なんら為す術もなく、全員捕虜となる。
銃口を背に、過酷な重労働を強られ、寒さと飢えと疲労のため、
つぎつぎに病に倒れ、実に120余名の隊員が、異国の土となる」
碑によれば、14、15才の少年たち217名の内、
120余名が異国の土となった。
6割ほどが亡くなったのだ。


「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、何だったんだろうか?
後世に、平和教育をする材料にすると言うが、
友は亡くなり、自分は死に直面し、命からがら逃げてきている。
平和教育の材料になると言われても、釈然としない、ピンとこない。

反対を考えればいい。
後世の平和教育の材料にするから、
これから「満蒙開拓青少年義勇軍」で、満州に行ってください、
死に直面するかも知れませんし、年金は出ませんが、
後世の平和教育の材料にするから、と言われて、
あなたは「満蒙開拓青少年義勇軍」に入りますか?

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
ソ連国境の警護民族の協和食糧の増産だった。
そして、関東軍の支配下の予備軍であった。

この政策のうち、ソ連国境の警護にあたり、
関東軍の予備軍でソ連侵攻にあたることは、
青少年には知らされることがなかった。そして、
世界でも例がない、青少年を戦場に送る軍隊をつくった。

先生からは、
「満蒙開拓は国策で、君の幸せを約束するものだ」
「満州に行けば、20町歩がもらえる」
と、説得されて「満蒙開拓青少年義勇軍」に入っている。

「満蒙開拓青少年義勇軍」が、
ソ連国境の警護をし、関東軍の予備軍であることは、
戦後に聞かされたことだった。


満蒙開拓青少年義勇軍」を壮行すると思う写真がある。大日向村。

日の丸、鼓笛隊が先導し、「満蒙開拓青少年義勇軍」が続く。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」で、
展示されていたこの写真を見に来た人が、
「ここに写っているのは、親父だ。親父が17歳のときだった」
と言っているのが聞こえてきた。
生きて帰国できたから、見に来た人が生まれたのだろう。
それか、満州で生まれたが、生きて日本に引き揚げることができた。
長野県立歴史館の企画展、
「長野県の満洲移民」-三つの大日向をたどる- 2012年、から。


先生も、
「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
民族の協和、食糧の増産とは言うが、
ソ連国境の警護であり、関東軍の予備軍だ、
とは言えなかった。そんなことを言えば、
14歳、15歳の子どもが死にさらされるわけで、
子どもを持つ母親は猛反対する。すると、
先生は、満州に送り出すノルマが達成できなくなる。

満蒙開拓青少年義勇軍」の送出のトップは長野県。



「満蒙開拓青少年義勇軍」の生存者は、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出した、
信濃教育会」の責任と謝罪を要求している。

「信濃教育会」は謝罪をしていない。
今後も謝罪はしないと思う。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の生存者の、
気持ちに区切りはつくだろうが、
償(つぐな)いにはならない。

しかし、「信濃教育会」が実効を上げていることがある。
中国からの帰国者に、日本の社会になじませ、
日本復帰への力になる教育をしている。

「中国残留者2世」、「中国残留者3世」・・・は、
日本の文化を知り、中国の文化を知っている。
両国の文化を知る貴重な日本人として、
日本と中国で活躍できる人材を育てることができる。
これを「信濃教育会」の責任として、組織で進める。


長野県の阿智村に「満蒙開拓平和祈念館」ができた。2013年4月25日。

「満蒙開拓平和記念館」の設立にあたって、
「信濃教育会」は積極的に協力している。
「平和の尊さを次世代に語り継ぐ」という、
「満蒙開拓平和記念館」の趣旨に賛同して、
200万円を寄付している。

「信濃教育会」が積極的に、
「満蒙開拓平和記念館」に生徒を引率して、
「平和教育」、「歴史教育」を実施する。
「平和の尊さを次世代に語り継ぐ」という教育を、
「信濃教育会」が市別の「番付表」で発表してもいい。
「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
後世に、平和教育をする材料にすると言う指標になる。

中国帰国者日本語日本文化習慣の知識を授けて、
日本の社会になじませ、日本へ復帰する力になり、
日本の文化と中国の文化を知る貴重な人材を育てる、
中国からの帰国者への教育は、
「信濃教育会」に学べ! になればいい。
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