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草間彌生と東山魁夷がみる日本

2012-11-18 00:00:07 | Weblog
草間彌生東山魁夷がみる日本
草間彌生と東山魁夷は、海外で生活をした。
そして、外から日本を愛情の目、
客観的な目でみている。

草間彌生と東山魁夷の海外の生活はつぎである。
草間彌生は1957年、26歳のときにアメリカに渡って創作活動をし、
1974年に帰国した。

東山魁夷は1932年、25歳のときにドイツに渡り、ベルリン大学に留学した。
父の病状が悪化し、残り1年の留学を断念して1935年に帰国した。
敬称は略します。

無限の網」草間彌生自伝、作品社、2002年発行で、

草間彌生は、アメリカでの生活や創作活動をつぎのように書いている。

ニューヨークの生き地獄」の章で、
「ニューヨークの生き地獄は凄まじかった。
勉強に明け暮れるだけの日々の中で、
私は次第にドルを使い果たしていった。
そして、極端な貧困へと落ちていった」
「日常の食物を得ること。絵具とカンヴァス代の確保。
移民局の旅券の問題。病気。さまざまな困難が私を襲ってきた」

大成功のニューヨーク・デビュー」の章で、
「世界的な美術の先鋭的中心地ニューヨークで、
前衛美術家としての確固たる地位を築いていく結果となった」(1960年)。


東山魁夷はヨーロッパの美術行脚やドイツの留学をつぎのように言っている。
「ただ一通りの美術行脚の旅でなく、
西洋で生活することによって、
そこから日本振り返ってみたいと思った」

「東山魁夷画文集 美の訪れ」、東山魁夷著、新潮社、1979年、
「心の故郷」の章で、東山魁夷は書いている。
「若いとき、外国での生活という、
道草をくっていたときがありました。
西洋の芸術や、町に親しさを感じたことがありますが、
それは、いまになってみると、
日本風景文化に対する愛着を深めるための、
回り道であったように思えます」

「こういう意味からいえば、
私は故郷を見失った人間ではなく、
故郷を心の中に持っているともいえるのでしょう。
そして、逆に、いまの日本には心の故郷を失った人が、
多すぎると考えるときがあります」

信州の安曇野(あずみの)へ旅した東山魁夷。

「川端康成と東山魁夷 響きあう美の世界」。求龍堂、2006年発行。
左から井上靖、川端康成、東山魁夷の3巨頭が安曇野に会した。
後方は北アルプス。長峰(ながみね)山で、1970年5月12日。


草間彌生は、17年におよぶニューヨークの暮らしで、
前衛芸術の世界における「草間彌生」の存在を、
限りなく大きく、揺るぎないものへと発展させて、
1974年に帰国した。
そして、日本をつぎのようにみている。

「無限の網」草間彌生自伝の、
日本とニューヨークとのギャップ」から。
「国電の駅の階段を、奔流のように流れる人の波、
その不気味とも言える異様さ、
反面その一人一人をくわしくながめれば、
その表情、服装など、すべてにおいて没個性的で、
私が想像していた日本人の姿とは、まったくちがったものであった。
たまたま、「おや?」と思うと、それはアメリカやフランスの、
ファッション雑誌そのものの真似であった」。

「街を歩いていても、ここはどこの国だろうか、とまどってしまう。
個性を失った、奇妙で醜い建築物がひしめいて、
イタリアでもなく、フランスでもなく、アメリカでもなく、
まして日本でさえない」

「日本は、日本伝統の良さを失って、醜く近代化していた。
こんなふうに日本は変わってほしくなかった」

「進歩と近代化は、日本人に必ずしも幸福をもたらしている、
と言えるのだろうか。それらはかえって、人々の心自然とを、
公害と騒音でかきみだしているように思えてならない。
このような中で、彼らの心が荒れていることを、
彼ら自身、きづいていない

「私はいたるところを歩いて、日本の静けさ、美しい自然、
細やかな人情、素朴な混じり気のないもの、
良い意味での伝陽的純粋さを、さがし求めてみた。
けれど、日本は経済大国に成長したあと、
多くのものを失ってしまったと、つくづく思った」

日本政治庶民のためではなく
政治家一部の資産家ごまかしであると、つくづく感じた」
「これらに対して、文学者芸術家庶民は、一体何をしているのか」

松本から未来へ」。高さ14メートル、横46メートルの松本市美術館の壁面。

草間彌生の企画展、「永遠の永遠の永遠」に行列ができて、入場制限をした。2012年11月。

東山魁夷の「年暮る」(としくる)。1968年作。

山種美術館創立45周年記念特別展、
「ザ・ベスト・オブ山種コレクション」。2012年1月。

川端康成は、東山魁夷に進言している。
「京都は、今描いていただかないと、なくなります。
京都のあるうちに、描いておいてください」
それで、東山魁夷は「京洛四季」を描いた。
「京洛四季」の一つが「年暮る」である。


東山魁夷は、日本をつぎのようにみている。
「東山魁夷画文集5」。新潮社、1978年発行に、
遠い京都」という章と、
ある美しかった国の物語」という章がある。

遠い京都」。
「京都が今日に伝え得たものの中には、
世界的に貴重なものが沢山ある。
京都の誇り、日本の誇りということを越えて、
人類全体の重要な文化的な遺産なり、
日本伝統美を伝え発展させた多くの
技術的なものを持っている」

「京都が京都として、より生きるためにも、
日本国中どこにでもあるような都市になってしまうことなく、
京都のみ存在する価値あるものを失わないことだと思うのだが、
京都の此頃の様子を見ていると、どうも、
特色のない地方都市になり下がるように、
努力している傾向も見える」

「京都自身が、京都から遥か遠くへ離れていくことを感じる」

観光ということほど、
その地元側からも、観光客の側からも、
間違った意味で行われていることが、
今日の日本ほど甚だしい例を私は知らない」

美しい自然建築町の風致破棄することに、
全力を挙げているのが日本の現状である。
こんな馬鹿々々しいことがあるものかと、
嘆く一部の人々の声は、
土地開発とか、レジャーブームという騒々しさの中に、
掻き消されてしまっている」

「『看都満眼の涙』とは、
川端先生が、私の画集『京洛四季』のために、
書いてくださった序文の中の言葉である」
で、「遠い京都」は終わっている。

「看都満眼の涙」とは、なんだろう?
「京都をみると、眼にはいっぱいの涙があふれてくる」
じゃないだろうか?
川端康成を嘆かせ、泣かせた京都、ということになる。

「年暮る」の方向を眺めた写真。京都、2012年。

「京都のあるうちに」描いた「年暮る」(1968年)から、
半世紀たって、雑然とした「街並み」になった。
「年暮る」は、なくなってしまった。

半世紀前よりも、建築の「技術」は進歩した。
それに、「美意識」も向上しているだろうから、
京都の街は、半世紀前よりも、きれいになっていい。
しかし、川端康成の言うとおりになった。


つぎに、「ある美しかった国の物語」。
美しい風景の島国が東方の海上にあった」
と、物語がはじまる。

「人々は、遠い昔から自然を愛し
自然とともに暮らしてきた」

「こまやかな感覚を持つ女性の美意識が磨き上げられて、
今でも世界の宝といわれる優れた文芸作品が書かれた」

「ある日、西洋から黒い船がやって来た。
西洋の文明が押し寄せ、西洋におくれまいとして、
自国の優れたものを見失いがちなことが多かった」

「その小さな国と、ある大きな国との間に戦争が起こった。
空から降ってくるで、町という町は灰になってしまった」

「さて、それから後が問題である。
昔、中国の詩人が、国が敗れても山河はあると歌ったように、
はじめのうちは美しい自然はちゃんと残っていた

「もう戦争はやめて、経済を発展させ、平和に暮らそうとした。
経済の発展に、前後のわきまえもなく、熱中した。
エコノミックアニマルと名前をつけられ、
その国の美しい自然をも食い尽してしまった」

「自然の開発とか観光ということも、
ただ目先きだけの利益で、
かんじんの自然美を護る心が見棄てられた」

泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」

「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」

「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」
と、「ある美しかった国の物語」を閉じている。

それから、半世紀たった。
「ある美しかった国の物語」の続編はつぎにようになるだろう。
「経済のすさまじい膨張は、バブルがはじけると、しぼんでしまった。
世界のヒノキ舞台で、主役を演じてきたが、その座からすべり落ちた。
日いずる国』と、もてはやされた主役の座は、30年だった」

「つぎの主役は、中国が演じるようだ。
アメリカやEUを訪れた中国の要人は、世界の発展のためには、
互いの協調が必要であると、大いに歓迎され、もてはやされている」

「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」

「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」

「昔、美しい風景の島国があったと、ものの本に書いてあったが、
原爆ドーム原発の廃炉記念碑のように残されていた。
人々は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしていた」

これは、笑えない。
日本人がやってきたことだ。
日本は、どこぞの大国の植民地で、
宗主国の命令に従って、やってきたのではない。
日本人が進んで「美しい風景の島国」を壊してきたのだ。


草間彌生と東山魁夷の、日本をみる目は似ている。
「国電の駅の階段を、奔流のように流れる人の波、
その不気味とも言える異様さ、
反面その一人一人をくわしくながめれば、
その表情、服装など、すべてにおいて没個性的で、
私が想像していた日本人の姿とは、まったくちがったものであった。
たまたま、「おや?」と思うと、それはアメリカやフランスの、
ファッション雑誌そのものの真似であった」
「街を歩いていても、ここはどこの国だろうか、とまどってしまう。
個性と美を失った、奇妙で醜い建築物がひしめいて、
イタリアでもなく、フランスでもなく、アメリカでもなく、
まして日本でさえない」
「日本は、日本の伝統の良さを失って、醜く近代化していた。
こんなふうに日本は変わってほしくなかった」
「日本の政治は庶民のためではなく、
政治家や一部の資産家のごまかしであると、つくづく感じた」

「美しい自然や建築や町の風致を破棄することに、
全力を挙げているのが日本の現状である」
「泥海のそばの砂漠のような乾ききった土地に、
ただ四角な高い建築ばかりが建っていた」
「そこには、意味のない叫び声を挙げながら、
ただやたらに忙しく動き廻っている群集があるだけだった」
「昔、美しい風景の島国があったと、
今ではものの本に書いてあるだけである」

自然は心の鏡」。東山魁夷。

石碑は東山魁夷のお墓にある、長野市。

「私は清澄な風景を描きたいと思っている。
汚染され、荒らされた風景が、
人間の心の救いであり得るはずがない。
風景は心の鏡である」
東山魁夷はお墓から、
「自然は心の鏡」と警鐘し、
日本が再生することを願っている。

草間彌生と東山魁夷の警告、
「日本人は、なにをしているのだ!」
「早く眼を覚ませ!」
を、日本人は半世紀も無視してきた。

そして、日本人に目を覚まさせる衝撃が起きた。
2011年3月11日の東日本大震災と原発事故である。
日本人は、汚染された海と土地で、
汚染された水と空気にさらされて、
健康障害におびえながら暮らしている。

ポスト2011年3月11日、
日本は変革することができるのか?
世界がみている。日本人は試されている。
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