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ポルトガルの通知表

2009-11-01 07:51:51 | Weblog
“世界の表彰・評価”から、“指標”を定めて、“数値”で、
日本の通知表”をみたが、同じ指標で、
ポルトガルの通知表”は、どうなるだろうか?

日本はポルトガルによって、ヨーロッパの文化を知ることになり、
日本はポルトガルによって、ヨーロッパに紹介されることになった。

ヨーロッパ人の初めての渡来はポルトガル人で、1543年に種子島に漂着した。
それから、多くのポルトガル人が渡来した。キリスト教の布教のため、
貿易のため、そして植民地の拡大のためにやってきた。
南から来るから、南蛮人と呼ばれていた。
「南蛮屏風」。

神戸市立博物館の狩野内膳(ないぜん)の「南蛮屏風」(16世紀~17世紀)。
重要文化財を、現代のディジタル技法と伝統工芸士によって復元した屏風絵。
「よみがえる! 世界に誇る日本の至宝」展、松本博物館。2009年8月。
うれしいことに、模写したり、撮影することが許可されていた。

左上部は、南蛮船が荷揚げをし、中央の傘の下、赤い服の“カピタン・モール”が、
日本の港の商店街から南蛮寺へと向かっている。
カピタン・モールは、ポルトガルからアジア各地に航海する船隊の司令官で、
船隊の指揮のほかに貿易、植民地の拡大の任務があった。

ポルトガル人が種子島に漂着する(1543年)以前に、
ヴェニスのマルコ・ポーロは、北京で聞いた日本のうわさで、
「東方見聞録」を書いて(1298年)、日本をジパングZipanguと紹介している。
「ジパングは金が豊富で、宮殿の壁や床は金でできている」

日本の黄金を持ち帰るために、イタリアのクリストファー・コロンブスは、
スペイン王室の援助を得て、スペインのバルセロナから出航し、
西インド諸島にたどり着いた(1492年)。

バルセロナにはコロンブスのモニュメントがある。

左手に海図を持ち、あっちだ! と、右手が指す方を見ている。

マルコ・ポーロもコロンブスも日本に来ることはなく、
最初にたどり着いたヨーロッパ人は、ポルトガル人(1543年)である。
鉄砲を伝え、南蛮貿易をするとともに、「日葡辞書(にっぽじしょ)」や
「日本語文典」を作成して、日本を紹介している。

「日葡辞書」は、約32,000語の日本語を収録した辞書(1604年)。
「日本語文典」は、宣教師ジョアン・ロドリゲスが作成し、
日本語の文法や語彙、俳句、古今集など、日本の文化を紹介している(1608年)。

ヨーロッパ大陸最西端のロカ岬。リスボンの西33キロメートル。

「ここに地果て、海始まる」
右は大西洋で、アメリカ大陸につながる。
こんな景色を見て、地球球体説がでれば、この先はどうなっているか?
と、冒険したくなる。そして、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは、
アフリカ大陸の喜望峰を回り、インドへ着いた(1498年)。
“大航海時代”の幕開けである。

ワインはポルトガル人によって、日本に初めて伝わった。
それに、パン、てんぷら、カステラ、シャボン、タバコは、
日本語になって、日常の生活に入り込んでいる。
ブラジルを介して、移民で恩恵を受けた日本と、
宗主国であったポルトガルとのつながりがあり、
日本に世界への目を開かせた、“ポルトガルの通知表”をみたい。

ランク…AA=3位以内 A=10位以内 B=20位以内 C=30位以内 D=40位以内。
1)創造力: ノーベル賞の受賞者はなし→ランクF。
2)芸術力: カンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品はなし→ランクF。
3)学力:  PISA2006の15歳の知識と技能は34位→ランクD。
4)文化力: 文化遺産12は12位→ランクB。
5)運動力: サッカーのランキングは10位→ランクA。
陸上競技世界記録はない→ランクF。
6)経済力: 国民総生産は36位→ランクD。
7)援助力: 政府開発援助は20位→ランクB。
8)総合力: ランクC。


ポルトガルのレーダーチャート(2009年10月)。

[総合評価]
“創造力”のノーベル賞で受賞者がいないこと、
“芸術力”のカンヌ映画祭でパルム・ドール受賞作品がないために、
いびつな面積のレーダーチャートになっている。

しかし、国土が日本の4分の1、人口が1,060万人を考えると、
“経済力”の国民総生産GDPが36位であり、しかも、経済援助国で、
“援助力”の政府開発援助ODAが20位になっているのは、すばらしい。

ポルトガルは、アフリカの植民地を最後まで、保有していた。
第2次世界大戦後、イギリスやフランスは植民地を手放したが、
ポルトガルは保有し続けた。植民地からは独立のゲリラ闘争があり、
その鎮圧のために、サラザール政権は巨額の国家予算をつぎこんだ。

ポルトガルは、敗北はしないが、勝利もない、という泥沼状態になり、
将来に失望して移民したり、徴兵を恐れて国外に逃亡した。
この閉塞状態を、打破したのが青年将校によるクーデター(1974年)で、
半世紀続いたサラザール独裁体制は崩壊し、植民地を解放した。

ポルトガルは、500年の植民地依存から脱却して、
ヨーロッパの一員として、生きていくことになる。
EC(ヨーロッパ共同体)には、1986年に加盟した。
このECは、のちにEU(ヨーロッパ連合)に発展する(1993年)。

そのECから多額の資金援助があって(1989年~1993年)、
それを、産業開発、農業開発、教育開発に割り当てた。
高速道路を建設し、空港を拡充し、鉄道を建設した。

上空からリスボンを見ると(2000年)、数年前よりも発展していた。

数年前は、電気も水道もないバラックが集合したファヴェーラ(貧民街)が、
リスボン周辺にあったが、なくなっていた。
フィアットだった空港のタクシーが、大きいメルセデスベンツに代わっていた。

リスボン市街。

ショップがあり、レストランがあって、人は散策する。

これに対して、リスボン郊外に建設されたショッピング・モール。

経済成長によって、テレビ、洗濯機の家電品やPCなどの消費が伸び、
車で行くショッピング・モールが建設された。
レストランもあり、娯楽設備もある。

「これまでは、ブラジルやアフリカの植民地に移民する国だったが、
経済が成長して、移民を受け入れる国になった。
法規制が間に合わない。日本はどうなっているのか?
低賃金の単純労働者になり、治安が悪化するのを防ぎたい」
と、ポルトガル人は言う。

「日本は、むかしブラジルほかに移民したが、経済大国になって、
移民を受け入れる国になっている。日系人には就業のビザを発行している」
と答えた。

「農家は貧しく、フランスやドイツに出稼ぎに行って、送金していた。
これまでは、小麦やワイン、コルクの農産物が輸出のトップだったが、
機械、自動車、衣類に置き換わってきている。それに、観光収入があって、
アイスランド、イギリス、ドイツから太陽とビーチを求めてやってくる。
温暖で、治安がよくて、物価が安いから、ポルトガル南部のリゾートは盛況だ」

ビーチがあり、ゴルフ場があるカシュカイシュCascais。
リスボンから西へ25キロメートル、電車やバスで1時間弱。


カシュカイシュから、ヨーロッパ大陸最西端のロカ岬まで、北東へ12キロメートル、
王宮があるシントラSintraの街(世界遺産)まで、北へ12キロメートルである。
シントラの王宮。

後方のとんがりコーンは調理場の煙突。
シントラには、ムーア人の城跡があり、宮殿(ペナ)がある。

シントラは、リスボンから北西へ25キロメートル、ロカ岬へ行く途中に立ち寄る。
小路にはレストランがあり、みやげものやがあって、鶏の置物が目につく。

高さ8センチメートルだが、ポルトガルの気高さがあって、飾ってある。

“運動力”で、ポルトガルのサッカーのランキングは10位と強い。
これまで、ワールド・カップで優勝していないのがふしぎである。

「ルイス・フィーゴとペドロ・パウレタで優勝を期待したが、ダメだった。
しかし、フィーゴの後継者、クリスティアーノ・ロナウドがいるから、
次は優勝してほしい」
と、ポルトガル人の初優勝への期待は大きい。

ルイス・フィーゴはスペインのバルセロナで活躍していた。
同じスペインのレアル・マドリッドに移籍した(2000年)が、
その移籍金が65億円であった。

フィーゴの上をいくのが、クリスティアーノ・ロナウドである。
イギリスのマンチェスター・ユナイテッドで活躍していて、
スペインのレアル・マドリッドに移籍する(2009年)が、
その移籍金は129億円である。
ポルトガルはサッカーのスーパー・スターを生んでいる。

ポルトガルには16のクラブ・チームによるプロ・サッカー・リーグ、
スーペル・リーグがある。
そのクラブ・チームの、世界のチャンピオンを決める大会がある。
ヨーロッパのチャンピオンと南米のチャンピオンが覇を競って、
1960年から始まったインターコンチネンタル・カップは、
1980年からトヨタ・カップとなり、
2005年からFIFAクラブ・ワールド・カップと、変遷してきた。
これら歴代のクラブ・チームの優勝国を作成して、
ポルトガルのクラブ・チームの成績を調べた。
あわせて、ワールド・カップの優勝回数を付け加えた。

1位はアルゼンチンとブラジルで、9回優勝している。
イタリア8回、ウルグアイ6回、スペイン4回が続く。
ポルトガルのクラブ・チームは2回優勝して、8位である。
優勝したクラブ・チームは、2回ともFCポルトで、1987年と2004年である。

クラブ・ワールド・カップの優勝国は11か国で、
ワールド・カップの優勝国は7か国である。
ワールド・カップの優勝国は、フランスを除いて、
クラブ・ワールド・カップの優勝国である。
クラブ・チームが強い国は、ナショナル・チームも強い。

リスボンのレストランで、食事もワインもうまかった。それに安い。
リゾットFish with Riceは、鍋で出てきて、たっぷりのボリュームだ。
それに魚スープFish soupまでがついてきた。満腹になる。約1,000円。
500ccのワインが400円だった。

ポルトガルには、降りそそぐ太陽の恵みがある。そして、
北部のドウロ川上流は、雨が少なく、冬の冷え込みが厳しい。
9か月の冬と、3か月のしゃく熱地獄で、寒暖の差が大きく、
“ポートワイン”用の良質なぶどうができる。

ポートワイン。


ポルトガルの宝石と呼ばれるルビー色は、
太陽の恵みを凝縮したような、ふくよかな甘みだ。

ゆったりした気分になる。

ポルトガル人はどのくらい、ワインを飲んでいるのだろうか?
WHO(World Health Organization世界保健機構)に、
アルコール摂取量のデータがある。アルコールが出生率、ガン、
肝硬変、精神病、消化器、交通事故に、与える影響を調査するもので、
15歳以上の成人1人あたりの、純粋なアルコールに換算した摂取量を公表している。

アルコールの含有量を、ワインが12パーセント、ビールが5パーセント、
スピリッツが40パーセントとしているが、各国の事情に合わせて、
アルコールの含有量を調整している。

1位はルクセンブルクである。
フランスに次いで、ポルトガルは3位である。
イタリア、クロアチアが続く。

ポルトガルはワインが好きである。しかし、1996年に比べると、
消費量は落ちている。
日本は、20位までに顔を出さない。1996年は77位であった。

ビール、スピリッツ、そしてアルコール合計の摂取量はつぎである。

1位はチェコである。
アイルランド、スワジランド、ドイツ、オーストリアが続く。
ポルトガルは20位までに顔を出さない。日本も。


1位はモルドバである。
レユニオン、ロシア、セント・ルシア、ドミニカが続く。
ポルトガルは20位までに顔を出さない。日本も。
アジアでは、6位にタイがある。


世界一の呑ん兵衛はウガンダである。
ルクセンブルク、チェコ、アイルランド、モルドバが続く。
ポルトガルは12位である。ポルトガルのビールとスピリッツは、
20位以内に入っていないから、ほとんどがワインである。
1996年と比べると、アルコールの摂取量は減っている。
日本は53位。1996年の46位からは落ちている。

大航海時代に世界に飛躍し、日本を世界に紹介した国ポルトガルは、
太陽の国、ポートワインの国、サッカーのスーパー・スターを生む国、
そして、経済援助国である。ワインをタップリと飲むポルトガルは、
ゆったりと人生を楽しむ国、また、世界に羽ばたきたい。


リスボン・フェスティバルのサン・ジョルジェ城、リスボン。
勇壮なドラムの行進があり、演奏があり、踊りがあった。
演奏者を撮らせてもらった。下にはリスボン市街、
先には、大西洋にそそぐテージョ川が見える。
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