ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

こんなコストのかかるカレー見たことない(労働とは何か、ということを考えさせられた)

2017-03-30 00:00:00 | 映画

過日「カレーライスを一からつくる」という映画を見ました。

プロデューサーの大島新氏は、元フジテレビディレクターで、大島渚監督の息子です。大島監督は、せっかく就職したのにすぐ会社をやめた自分の息子(新氏の兄貴の武氏―彼も、協力者としてエンドクレジットに名前がありました―も、NTTに勤務したのに、まもなく退職してしまいました)をひどく嘆いたそうですが、自分も監督になったばかりの身分で松竹から離れてしまいその後いろいろ苦労したということも、念頭にあったのでしょう。

それはともかくこの映画では、武蔵野美術大学のゼミで、カレーライスをいちからつくるという実習が行われて、それを記録したものです。指導教員は関野吉晴で、私はよく知らないのですが、冒険家で医者でもある(一橋大学卒業後、冒険をし、その後思うところあって医者になったというなかなか特異な経歴の持ち主です)人です。彼が学生を指導するわけです。2015年の4月からスタートします。

社会学とか文化人類学とかを専攻する学生でなく、美大の学生ですから、絵や彫刻その他を専攻しているあるいは専攻する(1年生も参加しています)わけです。美大だから、就職もなかなか自分の勉強したものを活かせるというわけでもない(ということは、映画の中でも語られています)。つまりは大学の(昔ながらの言葉で言えば)教養の授業で、ある意味ここで自分の未体験の、そして今後体験することのない世界を経験する、と言っていいかもしれません。それはもちろん他大学の他学部の学生も同じでしょうが、芸術をするというある意味とても世間離れした学生たちが、食材、野菜、肉その他を作るという人間の根源を突き詰めるというのもなかなか面白いかもです。

カレーですが、米を作り(無農薬です)、ジャガイモその他を栽培し、肉として最初にダチョウを飼育します。豚や牛は、屠場でないと処理できないという話がされます。ダチョウは3羽購入しますが、すぐ死んでしまいます。飼いきれないと判断したのか、ホロホロ鳥と烏骨鶏を飼います。飼育場所は大学の構内です(よく大学も許可したよね)。

正直、ダチョウとかホロホロ鳥というのは少し撮影を意識しすぎじゃないのという気がしないでもないのですが、なんとかこれはそれなりに成長します。そしてスパイスも自分で栽培します。

で、ここまでは想定の範囲内ですが、私が驚いたのは、塩も海から採取したということです。海水を煮詰めて塩をつくります。これを見ていて、そこまでするかと思いました。なかなかすごい。

それで、カレーを盛る器と食べる道具まで自作です。器はわざわざ同じ大学の陶器製作を専攻する人に指導を受けて(美大だから、そういう人もいるわけです)焼き上げて、映画には出てきませんでしたが、スプーンなども竹で作った模様。

うーん、そこまでしますかね(苦笑)。どんな原始の民だって、器と食べる道具くらいは一からつくらなくったって用意はしてあると思いますけど。でもそこまでやるということです。

さて映画のクライマックスは、やはり飼っていた食肉用の鳥(ホロホロ鳥と烏骨鶏)をどうするかということです。もちろん食材にする際は、誰かに頼むのでなく、自分たちが絞めて血を抜き、羽をむしるという作業をしなければいけません。それで芝浦で食肉処理の作業をする方々に来てもらい、講演をしてもらいます。

それで屠場の労働組合の委員長氏は、自分もペットのネコが死んだ時は動揺したという内容の話をします。当たり前ですが、動物を殺さなければ人間生きていけません。これは植物(野菜、果物)だって最終的にはご同様。

さらに研究室で、いろいろ学生たちも議論をします。けっきょく(当然といえば当然ですが)やっぱり肉にしようということになります。

ついに調理と試食の当日、1月の雪がべったり残る日、鳥を絞めます。まず教授が自分でホロホロ鳥の首の骨をおります。首を切り落として放血します。烏骨鶏は、学生たちが骨をおって処理を進めます。

私もこのような経験をしたことはありませんが、でもこれもよい経験ですね。一生忘れられないでしょうし、また忘れてはならないでしょう。

それでついに食べるのですが・・・見ていて(たぶん私以外の人も)考えたことが。

これ、いくら金がかかっているのよ(苦笑)。

協力者(田んぼや畑を貸してくれた人、器などの製作を指導してくれた人その他)ヘの謝礼、食材の購入費、学生たちの日当、その他。学生たちが労働した価値を金銭換算しただけでも、莫大じゃないですか。もちろん学生たちは授業の一環だし、協力者も、実費あるいはそれを下回る価格で協力してくれたのかもですが、商売として考えたら、たぶんこんな高価なカレーライスないんじゃないんですかね(苦笑)。天皇がカレーを食べるかどうか知りませんが、天皇の食べるカレーだって、ここまで手はかかっていないんじゃないのかな。いやよくわかりませんけど。

前に何かのテレビ番組(たしか経済関係の番組だったかと思いますが、確信はありません)で、仕事とは究極のところ「代行」なのです、と経済評論家だかの男性(誰かはわかりません)が語っていました。家事代行なんてのはまさにそうでしょうが、たしかに「代行」をしてもらわないで最大限自力でやろうとすればこの映画のようになります。そう考えると、「代行」とか「仕事」というのは、やはり偉大ですね(笑)。動物は、たとえば肉食動物は最初の段階餌を子どもにあげて、成長したら自分で食っていけるように狩りのやり方を伝授するのでしょうが(この点、食べる草があればいい草食動物より面倒でしょう)、それからはあらゆることを自分でやらなければいけませんし、餌を捕まえられなければ死んでしまいます。人間は、サルからホモサピエンスに分化する過程で、たとえば狩猟や農耕や漁労、採集などさまざまな方面で専門のジャンルができまして、文字の発達などにより役人のような仕事をする人間も出てきたし、また暦などを考えていつごろ農耕をするのがいいかとか、狩りをするのに適した季節とかを考える人もでてきたわけです。あるいは収穫物をどう保存するか、それを物々交換から始まり、貨幣(に類するもの)のようなものを交換媒体として活用するようにもなったし、あるいは衣食住なども、服を売買するようになったり、食堂もできたり、家も賃貸などさまざまなやり方で提供するようになったし、労働(それこそ売春のようなものも入ります)を賃金を対価として提供するようにもなるわけです。そうなるとマルクスの剰余価値説なども出てきます。

そういえば、昔はミシンで服を作るというのが、わりといろんな家庭であったのかもですが、最近はそうでもありません。安価に服を購入できればそれはかまわない。食事その他もしかりです。カレーライスだって、店で食べてもいいし、自作するにしたって食材をスーパー他で購入してカレールーも自作するにしても店でスパイスを購入して、米屋などで買った米を炊飯器や釜で炊いたほうがいいし、あるいは出来合いのご飯、洗ってある(研いである)米でやったほうが面倒もない。そういうことをすることにより、人間は快適な暮らしと豊かさを享受してきたわけです。そう考えると、この映画はそれへの大きなアンチテーゼなのかも。そう考えると、ある種これは、レヴィ=ストロースじゃありませんが、構造主義的な思考へのかっこうの道しるべにすらなったのかもしれません。

やや話が大げさになりましたが、まさにこの学生たちは、そこまで大きなものを学んだということなのでしょう。これもすごい経験だと思います。

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