ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

小澤征爾も、「引揚者」ではなくても外地生まれの人物だった(そのような人たちの死も加速している)

2024-02-13 00:00:00 | 音楽関係(CD、コンサート、歌手、楽器その他)

何をいまさらの旧聞ですが、小澤征爾が亡くなりましたね。記事を。


小澤征爾さん死去 88歳「世界のオザワ」の訃報に国内外で追悼
2024年2月10日 19時01分 

海外の名だたるオーケストラで活躍し、「世界のオザワ」と評された指揮者の小澤征爾さんが今月6日、都内の自宅で心不全のため亡くなりました。88歳でした。

訃報は国内外で報じられ、親交のあった人などが哀悼の意を表しています。

闘病で活動休止も そのたびに音楽の舞台に復帰

小澤さんは1935年に旧満州、今の中国東北部で生まれました。

5歳の時に日本に帰国、小学生で初めてピアノに触れ、レッスンを始めます。その後、桐朋学園の音楽科に入学、数多くの指揮者を育てた齋藤秀雄さんから本格的に指揮を学びました。

23歳で単身、フランスに渡ると、現地で行われた指揮者のコンクールで優勝して飛躍の足がかりをつかみ、世界的な指揮者、カラヤンに師事しました。

またアメリカの指揮者、バーンスタインにも認められ、25歳でニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任、その後もウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など世界的に有名な数々のオーケストラで指揮者として長年活躍しました。

レナード・バーンスタインと(1961年)
このうち、アメリカのボストン交響楽団では1973年から29年間にわたって音楽監督を務めたほか、世界屈指の歌劇場として知られるオーストリアのウィーン国立歌劇場でも音楽監督を務めるなどその活躍によって「世界のオザワ」と評されました。

国内でも1972年に新日本フィルハーモニー交響楽団の創立に携わったほか、恩師の齋藤秀雄さんをしのんでサイトウ・キネン・オーケストラを結成して音楽祭を開くなど精力的に活動し、戦後日本のクラシック界をけん引してきました。2008年には文化勲章を受章しています。

小澤さんは2010年に食道がんで手術を受けて以降、活動の再開と休止を繰り返していましたが、去年9月には長野県松本市で開かれたコンサートに姿を見せていました。

小澤さんは、今月6日都内の自宅で心不全のため亡くなったということです。88歳でした。

葬儀はすでに近親者のみで執り行い、後日お別れの会を開くことを検討しているということです。

小澤征爾さんは2010年、74歳の時に食道がんの治療に専念するため、音楽監督を務めていたウィーン国立歌劇場での公演をはじめ、国内外の公演をキャンセルして活動を休止しました。

食道がんを公表(2010年1月)
小澤さんは食道を摘出する手術を受けたということですが、同じ年の8月には復帰の会見を開き、若手の演奏家たちを前に力強く指揮をする姿を見せました。

その後も持病の腰痛や体力の低下などで活動を休止することがありましたが、そのたびに音楽の舞台に復帰してきました。

2018年、82歳の時には心臓の弁がうまく機能しない「大動脈弁狭さく症」で入院しましたが、同じ年に復帰すると再びオーケストラを指揮する姿を見せ、小学生に音楽の魅力を伝える催しなども開きました。

そして2022年、自身が総監督を務める「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」の30周年特別記念公演を前に長野県松本市で、3年ぶりにオーケストラを指揮する姿を見せ、動画を公開しました。

この時が、公の場での小澤さんの最後の指揮となりました。

国内での大きな功績の一つ「サイトウ・キネン・オーケストラ」
小澤征爾さんの国内のクラシック界における大きな功績の一つが今も続く「サイトウ・キネン・オーケストラ」です。

これは1984年、小澤さんが師事した音楽家の故・齋藤秀雄さんをしのんだメモリアルコンサートを開いたのが始まりです。

このとき、特別に編成されたオーケストラには小澤さんらの呼びかけに応えた世界中で活躍する齋藤さんの門下生が集まり、今の「サイトウ・キネン・オーケストラ」の母体となりました。

このオーケストラはヨーロッパでのツアーも行って海外でも絶賛され、1992年には長野県松本市でも小澤さんみずからが総監督を務める「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を初めて開催しました。

サイトウ・キネン・フェスティバル松本(2009年)
その後「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は世界水準のオーケストラとオペラに親しむことができる国際的な音楽祭となりました。

松本市で小澤さんが指揮した「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏を収録したアルバム「ラヴェル:歌劇《こどもと魔法》」は、2016年、アメリカの音楽界で最も権威があるとされる「グラミー賞」の最優秀オペラ・レコーディング賞に選ばれました。

おととし、松本市で行われた「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏が小澤さんの公の場での最後の指揮となりました。

(以下略)

昨今相当体調が悪く、指揮をするのも厳しい状況だったので、正直「来るものが来た」という感があります。偉大な音楽家が亡くなったわけであり、ご冥福をお祈りいたします。ちょうど最初の奥さん(江戸京子)が1月23日にお亡くなりになっているので、まさに彼女の後を追うような逝去でした。

さて、記事にもあるように、小澤は満洲国奉天市(現:中華人民共和国瀋陽市)に生まれています。彼の名前の由来は、Wikipediaから引用すれば、

満洲事変の首謀者となった板垣征四郎石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した

とあるくらいで、また彼の父親(小澤開作)は満洲国協和会創設者の一人でありました。つまりは、旧満洲国(満州)でも幹部でいたわけです。小澤自身は、政治的にはリベラルな立場だったかと思いますが、父親への反発みたいなものもあったかもしれません。もっとも日本の音楽家にはリベラルな人が多い。小澤の盟友であった武満徹もリベラルな人です(なお彼は、東京生まれですが、生後1月で大連にわたっていますので、彼も外地在住でした)。黛敏郎すぎやまこういちのような人物のほうが珍しいわけです。

1935年9月生まれの小澤は、1941年3月に日本に戻っているので、彼や武満(1930年生まれで37年に日本帰国)はいわゆる「引揚者」ではありませんが(Wikipedia「引揚者一覧」に、小澤の名前もありますが(武満はない)、1941年に帰国しているので、日本敗戦により旧植民地や中国ほかからの帰国を余儀なくされたわけではないので、引揚者ではないと思います)、それでもやはり外地というものを知っている人間ではあるわけです。早く帰国した武満はそうでもないでしょうが、1931年生まれで大阪出身であり途中帰国もしながらも1947年にようやく帰国するにいたった山田洋次などはまさに人格形成は満洲にありといった人でした。

で、武満は1996年に亡くなっていますが、ご存命なら今年94歳、山田は今年93歳、小澤は今年の誕生日を迎えられていれば89歳でした。引揚者としてはおそらく一番若いくらいの年齢であるのが、1945年生まれである櫻井よしこですから、そういった人たちが社会から完全に消える時も、そんなに遠くはありませんね。それは、第二次世界大戦をほんのわずかでも知っている、あるいは記憶にはなくても同時代に生きている人たちが消え去る瞬間でもあります。なお櫻井よしこは10月26日生まれですので、引揚者ではあっても戦後生まれです。

似たような記事はいままでいくつか書いています。

2か月弱死が伏せられていたのだから、立花隆もたぶん世間的には「過去の人」だったのだろう(外地・旧植民地で生まれたり育った人たちもどんどん亡くなっている)

(社会時評というほどでもないが)木村愛二が亡くなっていたことを知る(彼も過去の人間だったし、また外地からの引揚者だった)

鈴木瑞穂氏も引揚者だった(警察や官僚、金持ちの役が多かったと思うが、日本共産党の熱心な支持者でもあった)

これからもこのような記事を書くことになろうかと思います。あらためて小澤征爾氏のご冥福をお祈りいたします。


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