拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

オリビア・ハッセーのジュリエット/オペラの演出

2020-11-25 09:39:16 | 音楽
ニーノ・ロータが音楽を担当した映画「ロミオとジュリエット」を観に行ったのは中一のとき。クラスに割引券が配られたので、クラスメイトの男女数人で、横浜の奥地から中心部に電車を乗り継いで行った(当時、電車に乗るのは一大アドヴェンチャーだった)。字幕は初めてだったんだと思う。始め、見にくくて苦労したが直に慣れた。見終わった後の感想は、一にも二にもオリビア・ハッセーが可愛かったこと。後に布施明がオリビア・ハッセーと結婚したときは……さて、このときの私の心の内に分け入ってみよう。可能性その1。日本人の男でもこんな美人と結婚できるんだ、と希望を持った。その2。われらのマドンナをよりによって日本人の男がかっさらうなんて、と妬んだ。その3。ヒンズー教の坊さんの前で二人が結婚式を挙げたとき、しきりにオリビア・ハッセーが布施明に耳打ち。背中をしゃんとしなさい、との注意だったという。それを聞いて、オリビア・ハッセーって結構きついんだな、と恐れた。1も2も可能性はあるが、はっきり覚えているのは3である(私自身が結婚したのは、オリビア・ハッセーの結婚の2年後であるが、自分の将来を予見したのかも知れぬ)。映画に戻る。事前の噂で、この映画は「エッチな映画」とささやかれていた。その理由が分かった。ジュリエットの裸の上半身が一瞬映るシーンがある。それだ。たしかに中学一年生にはインパクトがあって、隣同士で肘をこづきあった。だが、「別にいやらしくなかったよな」が終わってからの共通の感想だった。そう、いくら頭の中にそれしかない中一でも(頭の中にそれしかないのはカンレキ越えでも同じ?)、芸術とわいせつの区別はつくということだ。映画の中で、恋する二人が神父さんの前でぶちゅぶちゅぶちゅぶちゅキスの嵐。役の上での二人の年齢を考えたうえでの演出だろう(演じた二人の年齢もこれに近かった)。そうしたティーンエイジャーでも、裸を見て常に鼻血が出るわけではない、ということだ。さて、そのロレンス神父、ジュリエットを仮死状態にして、街のみんなには死んだと思わせて(葬式の時にたっと笑うシーンを見て観客も笑った)、街の外にいるロミオに真相を知らせるべく使いをやるのだが、この使いの神父がロバに乗ってちんたらちんたら歩いている。チコちゃんにぼーっと歩いてんじゃねーよ、と怒られそう。そして、一刻も早くロミオにジュリエットが死んだことを知らせねばと馬を駆るロミオの友達がぼーっと休憩をしてる神父を追い抜くとき、館内に悲鳴があがった。映画館で映画を見る醍醐味である(「ゴジラ・ファイナルウォーズ」で、最後にキングギドラが登場したとき隣のおじさんが「おおーっ」と声を挙げていた。これも映画館で映画を見る醍醐味である)。さて、映画を観た後である。サントラ盤を買って「What is a youth?」なんて歌ってたし、原作(日本語訳)も読んだ。原作は戯曲だったので、独特の言い回しにあふれていた。後年、この映画を再び観たとき、中一の時には気づかなかったが(字幕で筋を追うのがやっと)、同じような言い回しが使われていることを知った。監督はゼッフィレッリ。この人が演出をしたオペラ「椿姫」がビデオになっている。そう、演出家って映画も、舞台も、オペラもいろいろやるんだよな。日本の演出家だってそう。浅利慶太がスカラ座で演出した「蝶々夫人」や市川猿之助がミュンヘン・オペラで演出した「影のない女」は、日本人しか作れないような素晴らしい舞台だった。だが、稽古中に灰皿を投げることで有名な某(亡)演出家が演出した「イドメネオ」(モーツァルト)は解せなかった。舞台を取り囲む群衆が手をゆらゆらさせる様がなんとも不気味だった。灰皿を投げるんだならもっとまとまな舞台を見せてよ、と思った。再び、映画の話に戻る。私らが観たのはリバイバル上映だった。学校に戻って先輩に話をしたら、「バッカヤロー、おめーら古いんだよー、オリビア・ハッセーが可愛いなんてのは俺たちが前から言ってんだから」と既得権をふりかざしていた。リバイバルだからか、二本立てだった気がする。だとすると、もう一つはディズニーの実写映画(別の機会に観たのかもしれない)。最後、カーチェースになって、で、クレーン車だかはしご車だかのクレーンだかはしごだかが人がつかまったまま走行中に上がっていくシーンがあった。いまだに、この映画の題名を思い出せない。

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