拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

春のうららの隅田川

2023-11-23 21:27:27 | 日記

そんなわけで、「吾輩は猫である」を読んでるんだけどね(あたし、外国語の本とか読んで頭が疲れたとき、箸休め(骨休め)に「猫」か「坊ちゃん」を読む)、もう、何度も完読してるんだけど、読むたびに新しい発見があって飽きない。

で、今回、たくさん「へー」があったんだけど、一番「へー」だったのは、「吾妻橋へきかかった……札幌ビールの処で」ってくだり。あら、吾妻橋工場って大昔はサッポロだったの?今、浅草から吾妻橋を渡ると屋上にきんとん雲みたいなオブジェのあるアサヒビールの本社があるでしょ?あそこ、昔はアサヒビールの工場があったのよ。で、レストランが併設されていて、今もレストランがあるけど趣は全然違ってて、いかにも工場併設って感じで、そこで飲むビールは格別だって言われてたの。その工場が取壊になったときは、残念がる人がきっとたくさんいたと思う。まあ、仕方がないわね。ビール工場って、結構、新陳代謝があって、今、どこどこビールのなんとか工場って聞いても全然知らなかったりするものね。そのアサヒの吾妻橋工場が漱石の時代(明治時代)はサッポロだったって知らなかった。まあ、ありうること。なぜって、アサヒ(当時は大阪麦酒)とサッポロ(ともう一つ)は戦前、合併して大日本ビールになったの。で、サッポロの吾妻橋工場は大日本ビールの工場になったのね。で、戦後、財閥解体でアサヒとサッポロが再び別会社になったとき、吾妻橋工場はアサヒの工場になったんだと思う。あたしの推測だけど、多分当たってる。

因みに、吾妻橋って、今では隅田川にかかってるんだけど、現在の隅田川って、東京都北区の岩淵水門で、荒川から分岐した流れなのよね。「分岐」って言うと隅田川の方が分家みたいだけど、現在の岩淵水門以下の荒川って、後から人工的に掘ってできた流れ。それまでは、今の隅田川が荒川で大川とも呼ばれてた。新しく掘った方は「荒川放水路」って呼ばれていた。だからか。あたしが子供の頃の地図だと、今の荒川は「荒川放水路」だった。だから、あたしったらつい最近まで「荒川放水路」が正式名称だと思ってた。名前から「放水路」がとれて「荒川」になった(荒川の本流になったことを意味する)のは1965年だって。あたしの感じだと「随分前から本家(本流)に格上げされてたんだなー」だけど、「えー、そんな後まで分家だったの?」って思う人も多いかもね。荒川放水路の工事は1913年から1930年までに行われたっていうから、漱石の時代はまだなくて、吾妻橋は、隅田川=荒川=大川に掛かる橋だったことになる。

それから、滝廉太郎の「花」に♪春のうららの隅田川……ってあるけど、この曲が作られたのは1900年っていうから、やっぱり、まだ隅田川=荒川=大川の時代だったことになる。隅田川の花って言えば、今では、河岸の桜の花を思い浮かべるけど(それも2番の歌詞に出てくるけど)、1番の歌詞に「かいのしずくも、はなとちる」ってある。当時は手こぎ船で、櫓櫂からしたたるしずくを花に見立てたんですね。



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