goo blog サービス終了のお知らせ 

今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

916 和歌浦(和歌山県)松風に一首詠えどくたびれた

2020-12-07 11:34:30 | 奈良・和歌山
「和歌山」という表記が初めて認められるのは、秀吉の書状の中なのだという。ということはさほど古い地名ではないことになる。しかし万葉集には山辺赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」が採録されている。これは神亀元年(724年)10月、聖武天皇が紀伊国に行幸した際に赤人が詠んだ歌だ。この「若の浦」こそ、和歌山の地名のルーツなのではないか。市中から20分ほどバスに揺られ「和歌浦」を目指す。



秋晴れて風は無い。昼下がりのバスは空いている。けやき大通りから和歌山城公園を左折、中央通りという広い路線を南下する。この辺りまでの市街ははなかなかの都市景観が続くけれど、ほどなく賑わいは寂れに変わる。ただこの街が独特なのは、城山から始まって南へ、平坦部の中心に小さな丘が点在して続くことだ。火山による隆起か、山の端が侵食された残骸かは知らないけれど、古くは紀ノ川河口の潟に浮かぶ小島の列ではなかろうか。



和歌浦は和歌川の河口に広がる遠浅の入江だ。外洋に繋がる和歌山湾とは長い砂州で隔てられているから、常に穏やかな湖のような「浦」なのだろう、片男波である。今でこそ砂州はコンクリートで固められ、一部は海水浴場となって賑わっているらしいけれど、想像力を膨らませれば、松の梢が万葉の往時を偲ばせるてくれもする。本土(紀伊半島)側は工場やマンションが立ち並んで紀三井寺の甍を隠しがちだが、名草山の緑は今も健在である。



平城京の宮廷人にとって、大和盆地の中ツ道を下り、亦打(まっち)山を越えて紀伊国に至り、紀ノ川の流れに従って後の雑賀の地へとやって来たのだろう。30年前、私がJR和歌山線というローカル列車で奈良から来た、同じ道筋である。そして聖武天皇は、ことのほか「若の浦」の風光を愛で、繰り返し訪れたらしい。供たちの楽しみは、むしろ牟婁(むろ)での湯治にあったのだろうが、「若の浦」はやがて「和歌の浦」と表される和歌の聖地になる。



「和歌の浦に白波立ちて沖つ風寒き暮(ゆふべ)は倭し思ほゆ」(藤原卿)である。傍らの小丘・玉津島は歌枕となり、玉津島神社は和歌に秀でた衣通姫尊を祀ることから「和歌三神」の憧れを集めていく。うまい和歌を詠むことは、世の賞賛を集める必須事項であり、時には栄達にもつながる現実的な教養だったのだろう。後の「蟻の熊野詣」の時代になっても、和歌浦は人気の中継点であった。和歌山は「和歌の神の地」なのである。



時代は下って江戸時代、紀州徳川家は近くに東照宮を勧請し、一帯はますます聖なる観光地となっていく。和歌の聖地はいつしか縁結びのご利益に比重が移り、宮崎県に取って代わられるまで新婚旅行ラッシュで賑わったのだという。地名の生い立ちを辿ったことで、人間に付き纏う世俗的サガを再確認させられる。そして「家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る」の有馬皇子の惨劇は、すぐ近場のことだと思い出す。



市の施設だろうか、砂州の中ほどに「万葉館」があり、この地と和歌の関わりを思い起こさせてくれる。そこを最後に今回の京都・和歌山の旅を終える。3日間、毎日15000歩以上を歩いていささか疲れた。玉津島神社前というバス停のベンチに座り、少ない本数のバスを待つ。JR和歌山駅にやってきた「特急くろしお号」は、外装も内部もパンダ一色である。赤人から1300年、牟婁の湯は白浜の湯となって、今も賑わっている。(2020.11.19)











コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 915 和歌山②(和歌山県)市... | トップ | 917 六日町(新潟県)白雲が... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

奈良・和歌山」カテゴリの最新記事