「江戸川橋」は地下鉄の駅名になっているせいか、耳慣れた響きがある。しかし東京に江戸川橋という地名はない。江戸川区に江戸川という街があるけれど、そこのことではなくて、文京区の神田川に架かる橋の名前である。なぜ「江戸川」なのか、川に沿って続く「江戸川公園」を歩いていて、永年の疑問が解けた。神田川はかつて、中流域のこのあたりが「江戸川」と呼ばれていたと、案内板が説明してくれたからだ。
江戸のころから武蔵国豊島郡関口水道町を名乗る土地で、戦後しばらくは「江戸川町」という町名も残っていたのだという。しかし住居表示の変更や河川名の統一で、地名としての「江戸川」が消えて40年ほどになるらしい。公園の看板を読むなど暇人の証明ではあるけれど、こうした説明に出会わなければ、私はこの地の変遷を知らないままでいたことだろう。
土地の変遷など「知らないまま」でいて何の不都合もないのだけれど、実はこの街は息子夫婦が暮らしているので、少しは由緒を知っていて悪いことはなかろう。この日やって来たのは、息子が「ネコを飼った」というからネコに会いに来たのである。会う前に川沿いの公園を散歩してみた。すると「みなもと18.6キロ、すみだがわ6.0キロ」という標柱も見つけた。
私の棲家は神田川のみなもと・井の頭公園界隈であるから、はからずも父と子は1本の川で繋がって暮らしているのだった。それも20キロ足らずの近さである。「その割りには無沙汰を続ける息子たちであることよ」などという、余計な思いも湧いてくる。
遊歩道をさらに行くと、江戸時代の上水設備だったという「堰」跡があった。その改修工事にはかの芭蕉も加わったということで、その庵跡が保存されているらしい(少し探してみたが、分からなかった)。いまは腕白たちの格好の遊び場で、何が楽しいか、みんな腕まくりして遊び惚けていた。こんな都心で水遊びとは、恵まれていると思うべきか、人工の狭いせせらぎで可哀想と同情した方がいいのか、むずかしい。
公園の先の斜面は椿山荘の庭園が広がっていて、梅の香に誘われるまま入ってみる。古色に染まった三重塔を見上げるホテルのテラスには、華燭の席を抜け出した新郎新婦が次々現れて、喜々としてカメラマンの注文に応じている。こうした風景は悪いものではないけれど、椿山荘といえば山県有朋であるから、どうしてもその俗っぽい顔が思い浮かんで素直になれない。
江戸川橋の交差点に戻り、新目白通りを渡ると、商店が続く裏通りがあった。通りの入口に地蔵様が祀ってあって、「地蔵通り商店街」というのだった。道は車の洪水で、空は高速道路に覆われ、沿道は雑多なオフィスビルが埋め尽くす街ではあるけれど、表通りからは隠された、どこか秘密めいた「和やか商店街」だった。名物だという鯛焼き屋には行列ができていた。
利便さを買うためには高額の家賃も致し方ない街なのだろうが、神田川の「みなもと」に比べると、あまりに緑が少ない。ネコもたまには井の頭の原っぱを駆けてみたいのではなかろうか。(2008.3.1)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます