会津若松のことを書こうとして、筆が進まない。東北の雄藩であって白虎隊の悲劇の地、優れた伝統工芸とそれにふさわしい街並みといった、語ることはいくらでもあるはずの街にも関わらず、である。この街には、他国者が簡単に分かったような気分になることを拒むところがあるのではないか。そんな気がする私は、だから安易に感情移入してはいけないと身構えているらしい。なるほど、その印象こそが会津若松なのだろうか。
私はこの城下町を3度、訪問している。最初は小学6年生の遠足、それから40年のブランクの後、続けて2度、訪れる機会があった。しかしいずれも短時間の日帰り訪問だったから、記憶は薄い。新潟市にあった私の小学校が、なぜ会津若松を遠足の地に選んだのかは分からない。高速道路がない時代、なかなかの強行日程だったと思われるが、商人町で育つ子供たちに、城下町の姿を見せようという意図があったのかもしれない。
遠足ではもちろん鶴ヶ城は行った。だが飯盛山まで足を延ばしたかどうかは忘れた。「城下町は敵の侵攻を防ぐため、道がカクカクと造られている」などといった説明を聞き、なるほどなあと思ったりした。「馬鹿馬鹿しい時代だ」などとうそぶかないあたり、私は素直な少年だったのだろう。そして名物の赤ベコが子ども心にも興味深かったのか、土産に買って帰った。40年後の旅はもっと短時間で、抹茶と蕎麦と漆器見物で終わった。
素直な子供には《白虎隊》は余りに重い《問題》であった。図書館の読本でその物語を読み、感激と恐ろしさと不可思議さを覚えた記憶が、いまもって「私の会津若松」を形成しているようなのだ。つまり、たとえ封建思想下にあるといっても、少年たちを前線に駆り出し、勝ち目のない戦に向かわせた大人たちの思惑。さらにあっさりと自刃という手段を選んでしまう少年たちの短絡的思考。いまの時代から見れば理不尽というしかない。
藩士をそこまで追い込んだ藩主・松平容保は、時代を先導できなかった不明を責められるべきであり、ファシズムにも利用された白虎隊の歴史は、象徴である鶴ヶ城の廃城でけりをつけることも考えられたかもしれない。しかし若松の人たちは、藩主を恨みもしなければ、明治政府によって取り壊された天守閣を復興した。長州との長い反駁と近年の和解は、その都度ニュースになるほど徹底したものだった。それがこの街の気質なのだろう。
街を歩いていると、黒く漆を塗り込めた土蔵が鈍い光を放っていたりする。そのあたりから、竹刀や胴具を抱えた少年剣士たちが立ち現れて来そうである。この街は、そんな気配を漂わせているし、いまも剣道が盛んなようで、気分は戊辰戦争にあるのかもしれない。名産の漆器や絵ロウソクは、現代生活ではあまり縁のないものになりつつある。しかしそんなことはどうでもいいと、市民は雪よけのアーケード街を澄まし顔で行き来している。
その街のニオイを嗅ぎ取るには、宿泊してみる必要がある。夜、暗く沈んだ裏通りで地酒を飲み、明けて朝靄の街路を歩いて駅に行く。そこでせわしく通勤・通学する人たちを観察していると、その土地がほんの少し分かったような気分になる。もちろんそれは表面だけのことで、街の琴線にはほど遠いのであろうが、日中を通り過ぎるだけの旅よりは印象が深まる。会津若松は、次は泊まってみなければならない。(旅・2004.9.28)(記・2011.5.3)
私はこの城下町を3度、訪問している。最初は小学6年生の遠足、それから40年のブランクの後、続けて2度、訪れる機会があった。しかしいずれも短時間の日帰り訪問だったから、記憶は薄い。新潟市にあった私の小学校が、なぜ会津若松を遠足の地に選んだのかは分からない。高速道路がない時代、なかなかの強行日程だったと思われるが、商人町で育つ子供たちに、城下町の姿を見せようという意図があったのかもしれない。
遠足ではもちろん鶴ヶ城は行った。だが飯盛山まで足を延ばしたかどうかは忘れた。「城下町は敵の侵攻を防ぐため、道がカクカクと造られている」などといった説明を聞き、なるほどなあと思ったりした。「馬鹿馬鹿しい時代だ」などとうそぶかないあたり、私は素直な少年だったのだろう。そして名物の赤ベコが子ども心にも興味深かったのか、土産に買って帰った。40年後の旅はもっと短時間で、抹茶と蕎麦と漆器見物で終わった。
素直な子供には《白虎隊》は余りに重い《問題》であった。図書館の読本でその物語を読み、感激と恐ろしさと不可思議さを覚えた記憶が、いまもって「私の会津若松」を形成しているようなのだ。つまり、たとえ封建思想下にあるといっても、少年たちを前線に駆り出し、勝ち目のない戦に向かわせた大人たちの思惑。さらにあっさりと自刃という手段を選んでしまう少年たちの短絡的思考。いまの時代から見れば理不尽というしかない。
藩士をそこまで追い込んだ藩主・松平容保は、時代を先導できなかった不明を責められるべきであり、ファシズムにも利用された白虎隊の歴史は、象徴である鶴ヶ城の廃城でけりをつけることも考えられたかもしれない。しかし若松の人たちは、藩主を恨みもしなければ、明治政府によって取り壊された天守閣を復興した。長州との長い反駁と近年の和解は、その都度ニュースになるほど徹底したものだった。それがこの街の気質なのだろう。
街を歩いていると、黒く漆を塗り込めた土蔵が鈍い光を放っていたりする。そのあたりから、竹刀や胴具を抱えた少年剣士たちが立ち現れて来そうである。この街は、そんな気配を漂わせているし、いまも剣道が盛んなようで、気分は戊辰戦争にあるのかもしれない。名産の漆器や絵ロウソクは、現代生活ではあまり縁のないものになりつつある。しかしそんなことはどうでもいいと、市民は雪よけのアーケード街を澄まし顔で行き来している。
その街のニオイを嗅ぎ取るには、宿泊してみる必要がある。夜、暗く沈んだ裏通りで地酒を飲み、明けて朝靄の街路を歩いて駅に行く。そこでせわしく通勤・通学する人たちを観察していると、その土地がほんの少し分かったような気分になる。もちろんそれは表面だけのことで、街の琴線にはほど遠いのであろうが、日中を通り過ぎるだけの旅よりは印象が深まる。会津若松は、次は泊まってみなければならない。(旅・2004.9.28)(記・2011.5.3)
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