今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

042 立川(東京都)・・・基地消えて人が溢れてモノレール

2007-05-14 17:58:30 | 東京(都下)

華やかな街に変身したとは聞いていたが、これほどの賑わいとは思いもよらず、駅を降りて唖然とした。JR立川駅は、中央線から青梅線、南武線が分岐する多摩地区の拠点駅だが、さらに多摩都市モノレールが開業して多摩センターとも結ばれ、ますます人の流れが激しくなったようだ。私の知る立川は、「立川基地」こそ返還されたあとのことだが、駅北口などは再開発前のわびしさが漂う殺風景な街だった。30年も経ると、人も変わるが「街」の変貌はもっと激しい。

日曜日の昼下がり、伊勢丹や高島屋が進出した北口と、昔の繁華街である南口「すずらん通り」を繋ぐ通路にもなっている駅コンコース(写真・上=意図的にブラしています)は、文字通り「ごった返して」いた。その中間にある改札口は、吐き出される人と吸い込まれる人の波が轟音を立てて渦を巻いている。新宿駅の南口を、10分の1程度に縮小した情景をイメージしたらいい。

「すずらん通り」という名の商店街は、私は神田神保町の例しか知らないけれど、都内にいくつもあるらしい。同名のよしみからか、それらの商店街が連携して実施するイベントのポスターを見かけた。とはいえ立川すずらん通りは見渡す限り飲食店や風俗店で占められ、神田の古本屋街とはずいぶん趣が異なる。そのうえなにやら熱を帯びた男たちの集団が、一心に先を目指す光景は異様でさえある。通りのはずれに場外馬券売り場があるらしい。可憐な花の名がけられた通りは、今では可憐な乙女が避けて通るような繁華街になってしまったのである。

そんなことを根拠に「この街は、基地の街の余韻を今も留めている」などと言ったら叱られるだろうか。朝鮮戦争は知らないけれど、立川基地がベトナム戦争での米軍出撃拠点となったことは、砂川闘争の激しさとともに覚えている。そうした記憶からの連想か、私の中で「タチカワ」は、どうしても殺伐とした響きを伴ってよみがえる街なのだ。だからあの薄暗い路地が入り組んでいた昔の北口が、ファッションビルと新緑の並木道に変わって面食らっているのである。

そんな私の頭上を、ほとんど音を立てずにモノレールが通過して行く(写真・下)。鳩の群れが、人波を気にすることなく舞い降り、またいっせいに舞い上がったりしている。駅ビルの出口で雲水が、手に持つ鉦を思い切り振って甲高い音を響かせている。通り過ぎる人たちに自分を振り向かせたいのだろうか、いい歳をして、解脱にはほど遠い修行僧である。そんな街のたたずまいを私は飽かず眺めている。連れが、和服の店に入ったまま出てこないのだ。

東京が巨大地震に襲われた場合、この街は重要な役割を担う。必要に応じて政府の災害対策中枢機能がここに移転、緊急輸送や救援の基地となるのだ。かつての立川基地は、広大な公園や防災拠点に生まれ変わったのである。他国を攻撃する場から、市民の暮らしを守る場になったわけで、結構なことだ。

駅ビルの一角の小さな八百屋で「ウド」を売っていた。東京は全国一のウドの産地なのだそうで、なかでも立川周辺は大産地だ。「柔らかいか」と聞くと店主は「あたりメエよ」と啖呵を切った。夕食に早速酢味噌で食べた。味は確かに上々で、歯ざわりを楽しんだ。(2007.5.13)
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