今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

900 閑谷(岡山県)閑として咳ひとつなく連子窓

2020-01-04 12:05:41 | 岡山・広島
漢字の「閑=カン」は「牛馬の小屋の扉を閉じるかんぬき」から生まれた文字だという。「閑静」「安閑」といった用いられ方をして、「のんびりと暇で静か」な様を指す。「閑谷」は「カンコク」と読んで「静かな谷」を言う。これを「シズタニ」と読ませて学問所の名称にしたのは岡山藩主・池田光政公かもしれず、学校の名としては実にふさわしい響きだ。ちなみに私に当てはまる「閑」を探すと、それは「閑人」であろうか。



閑谷学校に行ってきたと言いたいのである。現存する「庶民のための公立学校」としては世界最古だという閑谷学校は、1670年(寛文10年)、池田光政によって創建された。それから350年、今も備前市の山中に、ほぼ創建時の姿で建っている。そんなことを知って久しく、備前に行くからにはどうしても閑谷学校だと思ってきた。だからこそ寒風吹き晒す伊里の無人駅で、市営バスの到着を40分も待ったのである。



私は勉学が苦手なのに、こうした学校や、寺院などの修行の場を訪ねるのが好きだ。若者の学ぶ姿を連想することが、我が事のように嬉しいのだろう。それにしても閑谷学校は、学校としては随分と山の中である。里からは孤立し、今も藩主を喜ばせた「山水清閑」の地である。ただ備前の山はおしなべて険しさはないから、幽谷というより閑谷である。校庭は広々として清々しい。そこに国宝の講堂が大屋根を広げている。



藩校はいくつもあるけれど、閑谷学校が素晴らしいのは、藩士の子息だけでなく、身分を問わず入学できたことと、他藩からの越境入学も認めたことである。しかも学校の運営を確固とするため、学校領を設けて藩財政から独立させたというのだから、池田光政は名君ではなかったか。岡山という大藩だから可能だったのだろうが、藩主に「教育」の力を認識できる教養がなければ、こうした英断は下せなかっただろう。



人間が生んだシステムで最も優れているものは「教育」であろう。それは未来への投資である。現存する大学で、3世紀に遡るという中国・南京大学は別格として、ヨーロッパ最古のイタリア・ボローニャ大学は11世紀には活動が始まったという。日本の足利学校も同じころまで遡るのかもしれず、そうした教育機関が世の中にどれほど貢献したことか。ついでながら、人間が生んだ最悪のシステムは「国家」である。



閑谷学校を歩き、興味深かったのは校庭を囲む石塀だ。大人の胸ほどの高さだが、同じほどの量が地中に深く埋まっている。表面は美しく組み上げられ、上部は円く柔らかに整えられている。1メートルほどの厚みの塀が、765メートルに及んで延びている。350年を経ても一切緩みなく、石の隙間から雑草が生えてくることもないそうだ。摂津の石工を招いて築かせたそうで、学問所にかける人々の情熱が伝わってくる。



創建藩主を讃えるとともに、藩命で学校建設に当たった藩士・津田永忠も顕彰されなければならない。しかし私はそれ以上に、盛衰を繰り返しながらこの学校が、昭和39年まで機能し続けたことに感動する。そしてそれを成し遂げた岡山県民に拍手を贈りたい。さて、磨き込まれた講堂の廊下を歩く。分厚い床板の隙間から冷気が這い上ってくる。正座して受ける論語の講義を想像する。逃げ出したくなる。(2019.12.22)





















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