今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

433 芝(東京都)半世紀ほろ苦くなり芝散歩

2012-03-06 09:28:18 | 東京(区部)
学生時代の1年余を「芝」で暮らしたことがある。正確には「新橋6丁目」なのだが、増上寺や愛宕山が散歩コースに含まれるあたりだったから、気分は「芝」の住人であった。下宿先を探していたら「会社の宿直室が空いているから」と、無料で提供してもらったのだ。日比谷通りに地下鉄はまだ開通しておらず、第一京浜に出ると都電が走っていた。銀座はほんの隣り街だから、下駄を鳴らして銀ブラしても違和感がない時代だった。

        

昭和40年代初頭のころだ。都電は結構便利な乗り物で、日本橋あたりまで揺られて行って、京橋→銀座→新橋と歩いて帰って来たものだった。新橋は6丁目あたりまで来るとオフィスビルも寂れて来て、私が転がり込んだのは1階が倉庫、2階が事務室の木造2階建だった。2階の宿直室には小さな湯沸かし場がついていた。薄暗く、痛みも進んでいたけれど、何の不満もなかった。

        

会社は小さな中国貿易の商社で、物産展の際は私も手伝ってザーサイやピータンを売った。「搾菜はカラシナの根の部分で、戦乱続きの中国では瓶を土中深く埋めて非常食にしたものです」「ピータンはアヒルの卵を石灰で包みます。日本の鶏卵ではこれは絶対にできない」などとにわか講釈で売った。赤い表紙の毛沢東語録や紅衛兵の帽子まで並べていたのは、時代であった。

        

若い体力を持て余し、深夜のジョギングで愛宕山の石段を駆け上り、近所の銭湯で汗を流した。そのあたりに「東京タイムス」という新聞社があって、深夜、その一帯だけが明るく照らされていたものだが、経営が行き詰まったのか、私が渋谷に転居して間もなく、なくなったらしい。芝郵便局は現在ほど大きなビルではなく、日赤本社や愛宕署が近く、横浜ゴムはゴルフクラブ製造に進出する前で、留園は中国風の派手な建物だった。

        

周辺には小さな町工場がたくさんあったのだろう、豆腐屋や八百屋もある生活臭の濃い街だった。定食屋で工員たちと一緒に飯をかき込んだ。同じようにツケでいいかと訊ねると、皺だらけのばあさんは「あんたは、だめよ」と素っ気なかった。貧乏学生に、工員並みの信用はないのだった。銭湯で、顔のつるりとした男ににじり寄られたことがある。しきりと身体を触りたがるようで寒気がしたものだ。私にはそうした性癖はないのである。

        

増上寺の奥まった一角に、寺が運営する図書室があった。港区の図書館も近いのだが、むしろ寺の図書室が静かで好きだった。東京タワーまで足を延ばすと、修学旅行の団体を見かけることが多く、昨日までの自分を捜すような思いで列を目で追ったものだった。

        

45年ぶりだろうか。そんな記憶の中の「芝」を歩いた。変わったようでもあり、それほど変わっていないようにも思える。増上寺の裏手通りはすっかり整備が行き届き、昔の記憶にはない水子地蔵の列が風車を回している。増上寺幼稚園の園児たちだろうか、本堂では大勢の子供たちが座り、お坊さんの曼荼羅講釈を聴いていた。講話が終わったのだろう、園児の合唱が響いて来た。

        

私の「宿舎」が取り壊されることになり、芝の暮らしは終わったのだが、その跡地には小さなビルが建ち、そのビルもすでに古びていた。町工場の跡だろうか、鉛筆のようなマンションがいくつも出現し、小さなワンルームに結構な値を付けて売り出していた。懐かしくも寒々としたノスタルジック散歩になった。(2012.2.15)

        





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 432 六本木(東京都)バブル... | トップ | 434 新橋(東京都)宵闇と安... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東京(区部)」カテゴリの最新記事