追分とは「道が左右に分かれる所」を指す。ただし「牛馬を追い分ける」ような、それなりの主要な分かれ道を云うのであろう。だから地名として今も残る「追分」は、かつて賑わった街道の痕跡なのだ。なかでも中山道と北国街道が分岐する追分宿は、浅間根越の三宿と呼ばれた沓掛、軽井沢宿とともに大いに繁盛し、馬子唄「追分節」はここから全国に広まって行った。かつての宿場は、国道18号の喧騒から隠れるようにして残っている。 . . . 本文を読む
私は朱鷺を見た。大空を舞うトキを。旅の最終日、ホテルで早朝の真野湾を眺めていると、ツガイなのだろう、大きな2羽が海上を戯れ飛んでいる。逆光になって色は識別できないものの、ゆったりとした羽の動きはトキに違いない。「トキだ、朱鷺だ!」と叫んでいるうちに、2羽はこちらに回り込んで来て、住宅地の裏山方面へ消えて行った。ホテルの人は「トキもあり得ますね」と微妙な言い方をする。本当にトキだったのだろうか。
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大佐渡と小佐渡に挟まれた佐渡市泉あたりをドライブしていると、海が見えないものだから、島にいることを忘れそうになる。向こうに霞む峰に、自衛隊の大きな白いレーダー基地が建っていることに気がついて「ああ、あれが金北山か」と、改めて佐渡を意識する。あまりに長閑な田園風景に「隠居生活には最適な土地だな」などと羨んでみる。しかし順徳上皇にとっては、ただ寂しいだけの鄙の地だったのだろう、などと偲んでもみる。 . . . 本文を読む
佐渡を「佐渡」たらしめているのは、トキや金山もさることながら、島で守られ発展して来た伝統芸能や工芸の数々なのではないだろうか。陶芸や彫金、竹細工など、佐渡工芸の水準は極めて高い。金山労働者の作業着がルーツらしい裂き織りも、「佐渡裂織」としてその仲間に加わろうとしている。芸能になると私はまだ触れる機会がないものの、田植えを終え、島は能のシーズンに入ったようだ。こうした伝統が、佐渡の空気を醸している。
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天保11年(1840年)といっても、今から高々176年の昔に過ぎない。佐渡奉行に任命された川路聖謨は、江戸・板橋を出立して越後・寺泊から佐渡・赤泊に渡り、相川に着任した。奉行所に落ち着いた本人は「よき眺めなり」と満足げだが、14日間の旅だった。一方、私たちは午前7時半に東京・三鷹を出発、新幹線と高速船を乗り継いで5時間で佐渡の土を踏んだ。176年とは、これほどの変化をもたらすものか。大した進化である。
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佐渡は「日本の海岸地形が全てそろっている島」だというが、ただの島ではない。黄金の島であったことはご存知の通り。300万年前、日本海の海底隆起が始まり、一部は2000mも盛り上がって佐渡ヶ島を造った。そのとき隆起した岩盤に、3000万年前の火山活動が形成した金銀鉱床が含まれていたのは奇跡であろう。この生まれながらの「金の島」が、388年間の採掘で提供した金の量は、砂金などを別にしても78トンにのぼる。 . . . 本文を読む
佐渡は花に埋もれているだけでなく、大地そのものが尽きない興味を秘めているらしい。金や銀を豊富に埋蔵していた宝の島は、地球の生成についても饒舌に語っているようなのだ。その貴重さを知る人たちが「佐渡ジオパーク推進協議会」を結成、佐渡島を「世界ジオパーク」に認定してもらおうと活動を展開している。地図と写真のパンフレットが用意され、島内のポイントには解説板も設置されている。しばし地球の営みを聴いてみよう。
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春から夏にかけて、佐渡は花の島になる。日に日に濃さを増す新緑に、黄、橙、白、紫と彩りが加わり、爽快かつ贅沢な点描が生まれる。しかも四囲の海は「のたり」と鎮まり、蒼穹は澄んで眩しいほどである。だから「佐渡に行ってみたい」と家人に求められれば、私にとっては3年前と同じ季節になるとはいえ、やはりこの機を選ぶことになる。新潟港から1時間5分、「もう着いたか」と驚かせるスピードで、高速船は両津港に着岸した。
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りんごをイメージしたのだろうか、真っ赤な屋根の駅舎を出ると、飯田の駅前通りは中心街へ緩い坂を下って行く。その傾斜で小樽を思い出した。小樽も駅から街へ坂道を下り運河に突き当たる。飯田の場合、坂は城跡まで続き、そこで崖となって終わる。ここまでを「丘の上」と呼ぶらしい。崖下は広い谷となって、対岸を天竜川が流れて行く。さらにその向こうを塞ぐ緑の長城は、中央構造線を内に隠した南アルプスの西の果てであろう。
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浅間山を右手に見ながら、国道145号線を長野原町から軽井沢へと峠を越えた。澄み切った秋空に浅間の噴煙が大人しくたなびいて、快適なドライブ日和である。その快適さが、群馬県から長野県に入っていっそう増した。何故だろうかと考えて、乱雑な看板・広告類が見当たらなくなったからだと気が付いた。軽井沢町は長野県の条例に上乗せして、厳しい環境保全条例を定めているらしい。その効果は旅の者にもはっきりわかる。 . . . 本文を読む
新潟市の西郊に《小針》という地域がある。日本海を隔てる砂丘と、信濃川まで続く水田地帯の一部を、市の中心部からあふれ出た人口がジワジワと浸食して造った住宅地である。その一角に、母が小さな家を建てたのは1962年だった。地方都市にも、マイホーム時代が到来していた。それから50余年。相続後も家と土地を維持して来た私は、売却を決めた。そのことが私を、思いがけない感傷に追い込んだのである。 . . . 本文を読む
友人が運転するSUVは、信濃川に沿って南へ下っている。久しぶりに新潟に帰郷した私を、田上町にある温泉宿へ案内してくれようというのだ。川は田植えを終えた平野を潤して、なお豊かに黒々と河口へと向かっている。時おり堤の下に現れる集落は、水面より低いのではないだろうか。大河の恵みと恐ろしさのなかで、愚直に米作りを続けて来た蒲原の農民たち。私の先祖も、その中の一群れであったに違いない。 . . . 本文を読む
何度も書いて来たことだが、新潟市は私の故郷である。そして写真は、私が子供のころは一番の繁華街だった古町通りである。いつも買い物客であふれ、母は私が迷子にならないよう、手を痛いほど強く握って歩くのが常だった。久しぶりに帰郷してみると、商店のいくつかはシャッターで閉ざされ、かつて車で込み合っていた道路の真ん中を、お嬢さんたちが闊歩して行く。専門学校の生徒だろうか。今は「専門学校通り」なのだそうだ。 . . . 本文を読む
市役所にも道路のマンホールにも、道路標識やそこに立ち並ぶ幟旗にも、上田は《六文銭》だらけである。小よく大を制し、知略を駆使して義に殉じながらも家名を残した《真田》は、日本人が大好きな戦国集団であるから、本拠地・上田の市民がその記憶を誇りにするのは当然であろうが、この六文銭洪水にはいささか辟易とさせられもする。快晴の秋分の日、門と櫓が復元された城跡では、観光客がガイドの流暢な語りに聞き入っている。 . . . 本文を読む
近所の果物屋さんの店頭に、実に見事なブドウが並んでいた。思わず「これは何ですか?」と馬鹿な質問をしてしまった。ブドウであることは分かるのだが、巨峰をさらに大きくしたような粒、その粒がひしめき合う重々しい房は、私のなかのブドウのイメージを遥かに超えていたのだ。「これはナガノパープルといって、長野県の特許だから長野でしか栽培できないの」と女店主が教えてくれた。そして「主産地は中野です」と付け加えた。 . . . 本文を読む