先日見た映画「13人の刺客」の敵役は、明石藩に養子として迎えられた徳川将軍の子息、松平斉韶(稲垣吾郎)となっていますが、史実は斉韶の養子として迎えられた斉宣(1825-1844、なりこと)で、彼は11代将軍徳川家斉(1773〜1841)の二十六男です。(写真はYAHOO映画より)
明石藩の松平家の始祖は、家康の二男、結城秀康のひ孫となる松平直明で、越前大野から1682年に移封され、そのまま明治維新まで続いています。
その明石藩は、1704年に大和川付け替え工事、さらに1796年に木曽川、長良川、揖斐川の改修を担当、財政が危機的状況となったので将軍の子供を養子に迎え、一挙に危機からの脱出を狙ったようです。
藩の石高は、6万石から8万石に思惑通り加増されましたが、斉宣が藩主就任の挨拶に御三家を訪問した際、10万石以下という理由で正門でなく側門から通されたといいます。
これを屈辱と感じた斉宣は、父親にねだって10万石の格式で通したため、明石藩の財政難にさらなる拍車がかかっています。
平戸藩主の松浦静山(1760~1841)の随筆によると、明石藩が参勤交代で御三家の尾張藩領を通過中、3歳の幼児が行列を横切り、(尾張藩正門を通して貰えなかったせいか)幼児を無礼打ちにせよと命じたのが斉宣だったようです。
幼児を殺害された尾張藩は、明石藩の領内の通行を断ったと伝わっていますが、この話が脚本家、池上金男(小説家としてのペンネームは池宮彰一郎)の知るところとなり、1963年に公開された映画の原作となっています。
映画の中で通行を断る尾張藩
また、松平明石藩には、伝統の砲術、荻野流があったことが知られていて、幕末活躍した高島秋帆(1798~1866)もその傍流の荻野新流を学んでいたといいます。
その荻野流砲術の威力を見せ付けたのが1866年の第2次長州征伐で、明石藩兵と長州軍が安芸国宮内大野で戦った際、明石の大砲で長州は敗走、明石藩が勝利しています。
強い13人の刺客でも、大砲隊には敵わないので、映画に荻野流大砲術は登場していませんでしたね。
参考文献:新編 物語藩史 第8巻 明石藩 石田善人、安部俊彦著