JR京橋駅南口にある1945年8月14日の空襲慰霊碑をきっかけに、今井美代三さんの「大阪空襲体験記」を読んだのでご紹介しましょう。
京橋駅南口
八軒家浜の南、東区石町2丁目(石二町)の町会長今井さんは、自ら被災されるなか、空襲下の大阪を著書につぶさに記述しています。
米軍の第一回大阪空襲は、3月13日の深夜から14日の未明までの3時間半、港区、浪花区、北区、西区が爆撃を受け、約4700人の死者、行方不明者を出しています。
石町2丁目にある坐摩神社行宮
その後は5月末まで途絶えていましたが、6月に入ると1日、7日、15日、26日と4回、7月10日、24日、そして8月14日の空襲へと続いたのです。
坐摩神社行宮にある鎮座石
今井さんによると、東区石町2丁目が爆撃されたのは6月7日、今井さんは町内の避難民157名を率い、避難場所の八軒家浜に到着しています。
八軒家浜の標識
暫くすると、八軒家浜対岸の天満青果卸売市場が大爆発、天満一帯が一瞬にして大火となり、避難民の頭上に大量の火の粉が降り注いだといいます。
天満青果卸売市場のあった大川対岸
大阪市は、延焼防止のために民家の強制破壊までしていますが、天満青果卸売市場に大量の軍需用燃料を貯蔵していることは知らされてなかったようです。
左が天満青果卸売市場の跡
大量の避難民で溢れる中之島公園では、両岸の大火災で竜巻が発生して危険な状況となり、避難民が危うく船で公園を脱出したと書いてありました。
中之島公園の剣先
大阪砲兵工廠(大阪造兵廠)は、米軍の目標とされて何度も空襲を受けていますが、幹部が避難する防空壕は、3月に空襲を受けた大阪市内の焼け跡に、豪華な資材をふんだんに使って築造されていたようです。
大阪砲兵工廠跡地に建つOBPのビル群(正面)
民間人が被災した土地に密かに建設した防空壕は、終戦直前に撤去されていますが、撤去作業に従事した人はその豪華さに驚いたと今井さんは書いていました。
石町2丁目から八軒家浜方向
庶民に滅私奉公を強要しながら、自らは豪華防空壕に避難していた砲兵工廠の軍人達を今井さんは痛烈に批判しています。
「レジスタンス」だ「パルチザン」だと私服の民兵が「ゲリラ戦」をし、無差別爆撃で非戦闘員を殺戮した時点で、ジュネーブ条約は無視されていたと思います。
ルールを守って戦った、古きよき時代?は第一次世界大戦まででしょう。
第二次世界大戦の戦勝国も今やテロにおびえる毎日。
何か「因果応報」の様なものを感じている自分であります。
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