築地場外市場の隣が、西本願寺22代法主、大谷光瑞(1876〜1948年、1914年に法主引退、法名鏡如)の意図が強烈に反映された築地本願寺です。
大谷光瑞は、仏教の源流を求め大谷探検隊を率いて西域からインドを探検(1902〜03年)、1903年に法主に就任した後も1914年まで探検と発掘調査を継続させている西域インド派でした。
一方、設計者の伊東忠太(1867〜1953年)は、帝国大学(今の東大)で建築を学び、1899年帝国大学助教授、1902年から3年間、中国からアジア、インド、中東を経てギリシャ、ヨーロッパ各地の建築を研究して歩いたことで知られています。
その旅の途中(1903年4月、日露戦争開戦の前年)、中国雲南省近くの楊松駅で大谷探検隊と偶然出会ったことが、伊東と大谷光瑞との関係の始まりだったようです。
伊東は、1905年に帰国してすぐに大谷光瑞を訪ねて二人は意気投合、大谷光瑞はそれ以降西本願寺関連施設の設計を伊東に依頼するパトロンとなっています。
1914年、大谷光瑞は、施設の普請等で発生した巨額の負債と疑獄事件のため法主を辞任して隠退、新法主には甥の大谷光照(1911〜2002年、法名勝如)が幼くして就任しています。
しかし、1923年に起こった関東大震災で、1679年以来の西本願寺築地御坊が焼失、法主は、甥に代わっていましたが、大谷光瑞(当時46歳)は、再建の設計を伊東に依頼するのです。
伊東忠太は、従来から日本にある仏教寺院のデザインは、仏教源流のインドのものではなく、中国の建築のデザインであることに気付いていたといいます。
伊東は、「仏教はインドのもの」、「仏教寺院はインド様式」として設計、それを大谷光瑞が受け入れ、築地本願寺のデザインが決定したようです。
つまり、大谷光瑞が仏教のルーツを求める探検に出たように、伊東忠太は仏教寺院のルーツとなる寺院を設計したということでしょう。
参考文献:築地 本願寺出版社。伊東忠太を知っていますか 鈴木 博之編著