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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



京阪電車の淀屋橋から22分、1910年(明治43年)の京阪本線開通と同時にできた香里園駅は、今年開業100周年を迎えています。駅前には超高層マンションもできています。



香里園駅辺りの地名は、友呂岐村大字郡(こおり)でしたが、開業時ここに京阪電車が遊園地を開設することにしたために、阪神電車の香櫨園遊園地にならって、「香里」の字を当て、それが駅名になっています。

一の鳥居、左の電柱に郡(こおり)元町とあります



その地名と同じ友呂岐神社が、駅からほど近い高台にあるので訪ねてみました。ちょうど10月16日の大祭前で、鳥居の両側には祭り提灯が飾られていました。

二の鳥居



神社の由緒書きによれば、友呂岐は靹呂岐とも書き、鞆とは祭神の応神天皇の別名、呂岐は神を表す古い言葉だそうです。



ここは、仁徳天皇が茨田の屯倉を置き、皇室の別荘があったために御所山と呼ばれ、菅原道真(845〜903年)や後醍醐天皇(1288〜1339年)にも所縁のある土地だそうです。



大阪府神社史料によれば、後土御門天皇(1442〜1500年)が皇室所縁のこの地に八幡宮を祀ったとあり、畠山義就(1437〜1491年)と畠山政長(1442〜1493年)の争いの際(1463年頃)、社殿は焼失したようです。

三の鳥居



すく近くの成田山には、畠山義就の二男でこの地で戦死した畠山義豊(1469〜1499年)の墓石があることが知られています。

拝殿



100年以上を経た1577年になって社殿が再建され、寛永年間(1624〜1643年)、1688年、1974年と改築された記録があるようです。

拝殿



京阪電車が開通した1910年、近くにあった若山神社(三井神社)、二本松神社(田井神社)、太間神社を合併して地名の友呂岐神社と改称しています。

北の鳥居



後土御門天皇時代の八幡神社を創建とすれば、560年近い歴史を有しているようですが、香里園駅前の超高層マンションは、あと何年この土地にあるのでしょうか。



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やっと通勤散歩に適した季節となってきたので、ちょっと早く家を出て、地下鉄森ノ宮駅から玉造筋を北に、大阪ビジネスパーク(OBP)まで歩いてみました。




この辺りは、戦前まで大阪砲兵工廠があった場所ですが、今では西側が大阪城公園、東側がJR環状線の森ノ宮電車区、その先が大阪市交通局車両部となっています。




東側の歩道を歩きましたが、こちら側は道の幅が狭く、自転車も通るので、散歩には西側の大阪城公園内の森を通るのが正解でしょう。




途中に見える陸橋は、JR環状線の大阪城公園駅から大阪城公園に通じている橋です。




この陸橋の上に上がり、森ノ宮方向を見ると、大阪城公園が豊かな森となっているのが良く判ります。




これがJR環状線で最も新しい、1983年にできた大阪城公園駅。




さらに北に向かって歩くと、第二寝屋川に架かる弁天橋の先にOBPの高層ビル群が見えてきます。




これは157m、37階のOBPキャッスルタワービル。




玉造筋をさらに進むと、この先で寝屋川に突き当たり、そこで西に向きを変えています。




寝屋川の手前まで来ると、高さ135m、40階の高層マンション(リバーカントリーガーデン京橋)が壁のようです。




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大阪の都心も、秋になると空の青さが目立つようになり、中之島バラ園では青空を背景として咲くバラの季節となります。イギリスの純白品種「マーシャ スタンホープ」


堂島川北側のビルを背景としたアメリカの品種「ムーンスプライト」、八重咲きの花の中央が、ほのかに黄色い




濃い赤のドイツの品種「リリー マーレン」




梅田のビルを背景としたフランスの品種「ドレスデン」




土佐堀川沿いのビルを背景としたアメリカの「ホワイトクリスマス」




フランスの「コンフィダンス」




リバーサイドグリル前のコンフィダンス



難波橋を背景にしたフランスの「マダムエドワードエリオ」



土佐堀川の土手を散歩する人を背景にしたバラ




ばら園橋を渡ったバラ園にある、ドイツの「メルヘンケーニゲン」



牡丹のような、イギリスの「チャ-ルズレニーマッキントシュ」




ちょっと早起きすれば、バラを観賞しながら通勤できる、大阪のサラリーマンは恵まれています。



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昨日は天満橋から淀屋橋まで歩きましたが、今回は淀屋橋から中之島公園を天満橋方向に散歩してみました。

 

朝の7時頃だったので、大阪市役所の南側、ケヤキのプロムナードを歩く人は、まばらです。




バラ園の入り口に近い中之島公会堂の赤いレンガが、朝日を受けて鮮やかでした。




さて、東洋陶磁器美術館の北側にあるバラの小路まで来ると、アメリカの「バタースコッチ」という品種が咲いていました。




こちらはドイツの「ゲイシャ」という品種。




日本で作られた品種「ふれ太鼓」も、秋のバラシーズンの到来をふれているかのようです。




難波橋を潜り、バラ園に入ると、フランスの「ソニアリキエル」が清楚な花を咲かせていました。




同じフランスの「ディスティニー」のつぼみ




土佐堀川沿いに植えられている、日本の「都大路」も咲いています。




その横にあった八重咲きの牡丹のような品種です。




中之島バラ園のバラは、これから見頃を迎えるのではないかと思います。



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朝、少し早めに家を出て、地下鉄天満橋駅で下り、八軒家浜に出ると中之島から梅田方向のビルが朝日に照らされています。



中之島の剣先に見えるのは、噴水ノズル格納器で、早朝と夜間を除き、毎時0分と30分、噴水が5分間だけ放射されるようです。



どうやらシンガポールのマーライオンを真似たようですが、例えばノズルの場所に虎か龍を置き、その口から噴水が出るようにすれば、大阪のシンボルとして面白いのではないでしょうか。



さて、噴水を見ながら天神橋まで来ると、橋の途中に四角い標識が置かれ、天神橋が松屋町筋に架かる橋であることが判ります。



その天神橋の途中から、天満橋方向を見ると、中之島が中州であることが良く判ります。



中之島公園に下り、気持ちの良い公園を7時過ぎに歩いていると、足元の芝生に見慣れない何かが生えています。



その正体は、きのこ、秋はきのこのシーズンでもあります。



バラの庭からバラ園橋を渡ると、正面に中央公会堂と大阪市庁舎、さらに梅田のビルが良く見えます。



中央公会堂の近くまで来ると、青空に下弦の月が薄く浮かんでいました。



ここから会社まで、あとちょっとですが、少し歩き足りない通勤散歩でした。



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先日見た映画「13人の刺客」のリーダーは、老中土井利位(平幹二朗)に指名された目付の島田新左衛門(役所広司)、サブリーダーは、徒目付組頭の倉永左平次(松方弘樹)その次が小人目付組頭の三橋軍太夫(沢村一樹)です。 (写真はYahoo映画から)


旗本、御家人の監視、諸役人の勤怠や政務全般を監察する目付の定員は、10名、役料は1000石、配下に徒目付、小人目付がおかれ、後に大坂町奉行など遠国奉行に昇進するものが多かった花形役職でした。



 

また目付は、幕府最高権職老中の非違行為や政治失策まで摘発して、絶対権力者の将軍に上申できたといいます。



 

1701年、吉良上野介を切った浅野内匠頭は、即日切腹を命じられますが、その決定に喧嘩両成敗であると異を唱えたのも、当時の目付(多門伝八郎)でした。



 

多門伝八郎の意見は、結局却下されますが、目付として思う意見を申したのは職務に忠実で宜しい、と直属上司の若年寄から逆に褒められているのです。



 

旗本、御家人の総数は、22544人(1705年の記録)、このうち目付の下役となる下級官吏は4000人もいて、その権勢が強大だったことが想像できます。「江戸時代御目付の生活」



 

今の官僚組織に目付に該当するものはありませんが、警察組織に無理にあてはめれば、目付は警視監、徒目付組頭がたたき上げの警視正、小人目付組頭が警視クラスに該当するのかも知れません。



 

映画では、役所広司扮する島田新左衛門が魚釣りをしながら、きままな生活を送っているように描かれていましたが、実は現代の警視監同様かなりハードだったようです。



 

この映画は、1963年公開された映画のリメーク版で、47年前の映画の30分に及ぶ13人対53人の戦いが、50分間の13人対300人に拡大されていました。



 

この映画の時代設定から16年後の1860年、18名の刺客が桜田門外で60人の供に囲まれた大老、井伊直弼の暗殺に成功しているので、ストーリーは荒唐無稽とは言い切れないかもしれません。

参考文献:江戸時代御目付の生活 寺島荘二著、目付の基礎的研究 近松 鴻二著



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先日見た映画「13人の刺客」の敵役は、明石藩に養子として迎えられた徳川将軍の子息、松平斉韶(稲垣吾郎)となっていますが、史実は斉韶の養子として迎えられた斉宣(1825-1844、なりこと)で、彼は11代将軍徳川家斉(17731841)の二十六男です。(写真はYAHOO映画より)


 

明石藩の松平家の始祖は、家康の二男、結城秀康のひ孫となる松平直明で、越前大野から1682年に移封され、そのまま明治維新まで続いています。



 

その明石藩は、1704年に大和川付け替え工事、さらに1796年に木曽川、長良川、揖斐川の改修を担当、財政が危機的状況となったので将軍の子供を養子に迎え、一挙に危機からの脱出を狙ったようです。



藩の石高は、6万石から8万石に思惑通り加増されましたが、斉宣が藩主就任の挨拶に御三家を訪問した際、10万石以下という理由で正門でなく側門から通されたといいます。



 

これを屈辱と感じた斉宣は、父親にねだって10万石の格式で通したため、明石藩の財政難にさらなる拍車がかかっています。

 

平戸藩主の松浦静山(1760~1841)の随筆によると、明石藩が参勤交代で御三家の尾張藩領を通過中、3歳の幼児が行列を横切り、(尾張藩正門を通して貰えなかったせいか)幼児を無礼打ちにせよと命じたのが斉宣だったようです。



幼児を殺害された尾張藩は、明石藩の領内の通行を断ったと伝わっていますが、この話が脚本家、池上金男(小説家としてのペンネームは池宮彰一郎)の知るところとなり、1963年に公開された映画の原作となっています。

映画の中で通行を断る尾張藩 



 

また、松平明石藩には、伝統の砲術、荻野流があったことが知られていて、幕末活躍した高島秋帆(1798~1866)もその傍流の荻野新流を学んでいたといいます。



 

その荻野流砲術の威力を見せ付けたのが1866年の第2次長州征伐で、明石藩兵と長州軍が安芸国宮内大野で戦った際、明石の大砲で長州は敗走、明石藩が勝利しています。



強い13人の刺客でも、大砲隊には敵わないので、映画に荻野流大砲術は登場していませんでしたね。


参考文献:新編 物語藩史 第8巻 明石藩 石田善人、安部俊彦著



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無駄なハコものの典型のように言われていた、京都府精華町と木津川市にまたがる「私のしごと館」の今の様子を見てきました。


 

近鉄の新祝園駅からバスで10分、「私の仕事館前」で下りると、ガラス外壁の巨大な建物が見えてきます。



 

「私のしごと館」の敷地面積は、約8万3千平方メートル、建設費581億円をかけて2003年にオープンしています。



 

宇宙飛行士や消防士、声優など約40種類の職業を体験できたのですが、採算を度外視した運営のため批判が高まり、7年後の2010年3月末にやっと閉鎖されたようです。



 
施設を所有する独立行政法人「雇用・能力開発機構」は、同年5月に土地建物の売却を決め、入札者の募集を開始しています。

裏側に事務所


 

しかし、土地・建物の競争入札の受け付けが締め切られた8月末になっても、入札参加者はゼロだったようです。



 

「私の仕事館」の周辺は、文化学術研究ゾーンとして用途の制限があり、商業施設には転用できないので、今のところ買い手のメドは全く立たないとか。



 

もっと小さな建物であれば、研究施設としての買い手もあるかも知れませんが、延べ床面積が3万5千㎡、なにせデカイのです。

前庭から見た建物



 

これだけの規模となると、建物の光熱費、管理維持費も巨額となり、一般企業が買収できる限度を超えているのではないでしょうか。

左のレストランゾーンへの渡り廊下



 

大阪から2時間近くかかる不便な場所ですが、雇用・能力開発機構は、条件などを検討し、再度入札するようです。



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昨日の記事にも書きましたが、1923年の関東大震災で焼失した西本願寺築地御坊は、帝大教授の伊東忠太(18671953年)の設計で1931年に再建着手され、1934年に完成しています。

 1903年、中国ビルマを経てインドに入った伊東は、予定を大幅に超過する調査を続け、後のスケジュールが圧縮されたほどでした。本堂正面階段の両脇にある仏法を守護する聖獣、迦楼羅(かるら)の石像



江戸時代の草双紙で育ち、魑魅魍魎を愛した伊東は、この旅行でインド建築の装飾美に深く魅了されたようです。階段の上、本堂との間にあるホールの腰部分には、大理石がふんだんに使われています。



本堂内部は、椅子席が置かれた外外陣(そとげじん)の正面に金箔が張られた内陣(ないじん)が配置され、戦後再建された大阪の北御堂とよく似ています。



本尊が置かれた内陣の前に畳敷きの内外陣(うちげじん)がありますが、インド様式を徹底したかった伊東は、日本古来の空間配置に不服だったようです。


本堂入り口の上部には、キリスト教会にあるようなパイプオルガンが置かれ、仏前結婚式などで今も使われているとか


さてインド、サーンチー遺跡のモチーフが流用されている階段手摺の上には、伊東の牛の彫刻が置かれていました。


伊東の調査旅行の野帳を見ると、建築空間よりもそれに使われている装飾文様が数多く記録されていて、伊東の興味がそちらにあったことが判るようです。こちらは獅子と馬



ある対談で安藤忠雄氏が「伊東忠太の建築はやはり不思議です。私には歴史の正統な流れから、まるで一人だけポツンと抜けているように見える」と語っていました。猿もいます。


大阪にある西本願寺津村別院(北御堂)本堂は、この築地別院の影響を強く受けていると感じました。

参考文献:伊東忠太を知っていますか、鈴木博之編著

 



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築地場外市場の隣が、西本願寺22代法主、大谷光瑞(18761948年、1914年に法主引退、法名鏡如)の意図が強烈に反映された築地本願寺です。

 

大谷光瑞は、仏教の源流を求め大谷探検隊を率いて西域からインドを探検(190203年)、1903年に法主に就任した後も1914年まで探検と発掘調査を継続させている西域インド派でした。



一方、設計者の伊東忠太(18671953年)は、帝国大学(今の東大)で建築を学び、1899年帝国大学助教授、1902年から3年間、中国からアジア、インド、中東を経てギリシャ、ヨーロッパ各地の建築を研究して歩いたことで知られています。

 

その旅の途中(1903年4月、日露戦争開戦の前年)、中国雲南省近くの楊松駅で大谷探検隊と偶然出会ったことが、伊東と大谷光瑞との関係の始まりだったようです。

 

伊東は、1905年に帰国してすぐに大谷光瑞を訪ねて二人は意気投合、大谷光瑞はそれ以降西本願寺関連施設の設計を伊東に依頼するパトロンとなっています。

 

1914年、大谷光瑞は、施設の普請等で発生した巨額の負債と疑獄事件のため法主を辞任して隠退、新法主には甥の大谷光照(19112002年、法名勝如)が幼くして就任しています。



しかし、1923年に起こった関東大震災で、1679年以来の西本願寺築地御坊が焼失、法主は、甥に代わっていましたが、大谷光瑞(当時46歳)は、再建の設計を伊東に依頼するのです。


 

伊東忠太は、従来から日本にある仏教寺院のデザインは、仏教源流のインドのものではなく、中国の建築のデザインであることに気付いていたといいます。

 

伊東は、「仏教はインドのもの」、「仏教寺院はインド様式」として設計、それを大谷光瑞が受け入れ、築地本願寺のデザインが決定したようです。

 

つまり、大谷光瑞が仏教のルーツを求める探検に出たように、伊東忠太は仏教寺院のルーツとなる寺院を設計したということでしょう。

参考文献:築地 本願寺出版社。伊東忠太を知っていますか 鈴木 博之編著



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太平洋水槽を見下ろす場所にも案内して貰える「海遊館ガイドツアー」に参加してみましたので、魚の写真と一緒にその内容をご紹介しましょう。

ウマズラハギ


まず8階にある太平洋水槽の上にある展望台に上がり、そこから係員がジンベイザメとマンタに餌やりをするのを見学。


アマゾンのピラルク


ジンベイザメが水槽の中に垂直に立ち、大きな口を開けて餌のオキアミを海水ごと吸い込むシーンは、迫力がありました。



マンタは、海面すれすれに泳ぎながら、ヒシャクで流したオキアミを口の中に吸い込んでいました。

ナポレオンフィッシュ




以前、死んだ魚類を解剖してみると、胃の中から櫛が出てきたことがあり、それ以来、水槽に落とす恐れのあるカメラ等の持ち込みは禁止となったようです。

クエ




この太平洋水槽には、外の岸壁から直接魚類を吊り上げられる天井クレーンが設置してありましたが、巨大なジンベイザメを運び込むときには大変でしょうね。


ウミガメ



30分くらいかけて
太平洋水槽を見学したあと、そのままの姿で脱皮したタカアシガニとロブスターの抜け殻の展示を見ました。

ロウニンアジ



タカアシガニの甲羅は固そうですが、脱皮直後だけは非常に柔らかく、仲間に食べられる危険性があるので、係員が金網を被せて仲間から保護するとか。




このあとは、一般客と同じルートで館内を回りますが、ワイヤレスの専用イヤホンからマリンメイトの話を聞きながらの見学となります。

チョウチョウウオの水槽



マリンメイトから、今ペンギンが抱いている卵はニセモノで、本物は孵卵器の中に入れて大切に孵化させている、などの裏話を聞きながらの75分間は、あっという間でした。




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久しぶりに海遊館に行ってきましたので、今回は「顔」というテーマで撮った写真をご紹介しましょう。まずは動きの少ないラッコの顔から

 

大水槽の底にじっとしているヤイトハタの顔、他の魚は回遊しているので、なかなかピントが合いません。




こちらは大水槽のナポレオンフィッシュ、以前赴任していた中国広州のレストランの水槽に、調理されるのを待つ悲しそうな目をしたコイツがいたことを思い出しました。




常に一定のスピードで泳いでいて、顔にピントを合わせるのが難しいジンベイザメ。




こちらのハタは、海底から噴き出るエアーの横で、気持ちよさそうに、じっとしていました。




こちらに視線を送っているフエフキダイの顔




目が小さなウツボの顔、もっとアップで撮りたかったのですが、水槽の中はかなり暗く、ズームもこれが精一杯でした。




アザラシ、ずっと目と鼻を閉じて眠っていましたが、呼吸のために一瞬鼻を開けたところをパチリ。




魚の目といえば、パッチリした目でおなじみのメバル、メバルは動きが少ないので、撮影は楽ですね。




海遊館で撮った写真のクオリティを超えるのはスキューバーダビングでも、難しいのではないでしょうか。



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 秋分の日から2日後の9月25日、シーサイドコスモから明石海峡大橋を眺めると、夕日は橋の右側に、この日風が強かったせいか、橋の両側が蜃気楼現象で歪んで見えていました。



大阪港から見る夕陽は、これからさらに左側に移動、10月の初めには明石海峡大橋の中央に沈むようになります。




今年も天気の良い日の夕方、シーサイドコスモまで出かけ、明石海峡大橋に向けてカメラを構えていると、無粋な貨物船が太陽の前を横切るではありませんか。




船はすぐに通り過ぎて事なきを得ましたが、船のシルエットの先に、オレンジ色の雲がオーロラのように見えていました。




さて、太陽は明石海峡大橋の中央からやや斜めに沈み始め、次第に右側の支塔に近づいてゆきます。




夕日は、水平線ぎりぎりまで高度を下げますが、期待したダルマ太陽現象を見ることができませんでした。




ダルマ太陽とは、太陽と水平線が近づくと太陽の下から水平線に光が伸び、ダルマが首を伸ばしたように見える蜃気楼現象です。(昨年撮影した写真)




太陽は、急速に明石海峡大橋の彼方に沈んでゆきますが、この時期にこれだけ天気が良く、空気が澄んで、クリアに日没が見える日は少ないのではないでしょうか。




太陽は、半分その姿を隠してしまいましたが、ここから完全に隠れるまでの時間は、僅か1分20秒。




今年も、明石海峡大橋の彼方に沈む夕陽を見ることができてラッキーでした。



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大阪港の遊歩道、シーサイドコスモから、大阪港の海面越しに朝日が見えることは以前紹介したことがあります。(6月9日、日の出時間は4時45分、方位61度)

 


大阪港が最も早く日の出を迎えるのは、6月中旬頃、方位は真北から61度の方角、つまり真東から29度北寄りのポイントです。(6月12日、日の出時間は4時44分、方位61度)




7月に入ると日の出の時間が遅くなり、方位も東方向に移動してゆきます。下の写真は7月21日、日の出時間は5時、方位は64度。シーサイドコスモの遊歩道からかろうじて見ることができます。




8月に入ると、太陽はさらに東寄りに移動、シーサイドコスモの最北側から見ると、港大橋の左側から朝日が昇ります。(8月28日、日の出時間、5時28分、方位77度)




朝日は、9月から10月にかけて港大橋を渡り、秋分の日にはほぼ真東の方位89度、10月上旬から港大橋の右側から昇るように見えます。(10月2日、日の出時間、5時53分、方位94度)




10月2日の日の出、真東から約4度南に寄った地点です。




大阪港の日の出は、12月の冬至までさらに港大橋の右側に移動してゆき、橋を完全に渡りきるようです。




港大橋を中心とした大阪港のパノラマ写真(10月2日)




こちらは、朝日に照らされたコンテナ埠頭




明日は、明石海峡大橋の彼方に沈む大阪港の夕陽について、ご紹介してみたいと思います。



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この日は雨が降っていましたが、ホテルからほど近い、築地場外市場まで散歩してみました。

 

この場外市場には、テリー伊藤さんの実家、「玉子焼の丸武」があることで知られています。




早速買って食べて見ましたが、砂糖を使った甘い玉子焼で、コクのある出し巻きに慣れた大阪人には、ちょっと馴染めない味でした。




築地場外市場には、この江戸前玉子焼の店が何軒もあり、それぞれ微妙に味が違うようなので、食べ比べて見るのと面白いかもしれません。こちらは漬物屋さん




さて、築地市場と場外市場に挟まれた道を海の方に歩いてゆくと、交差点の先に波除稲荷神社(創建は1660年頃とか)がありました。




拝殿に向かう境内の左右には、二つの獅子頭が置かれ、左手が「お歯黒獅子」、その横には玉子焼屋さんの玉子塚が。




参拝後、市場に引き返し、商品で占領された狭い路地の中に入ると、市場からの荷物を運ぶ
ターレットトラックが頻繁に通り、交通事故が心配になります。




この場外市場にはアーケードが無く、店ごとにビニールシートなどで雨除けをしていましたので、雨の日の買い物は大変です。揚げたてのてんぷらも売っています。



石原都知事は、1935年に完成した今の築地市場を視察して、「古い、狭い、危ない」と評価したそうです。新大橋通りに面した通りの混雑




ところで、「古い、狭い、危ない」築地市場の豊洲移転問題はどうなったのでしょうか。




参考文献:「つきじ」と「市場」森 清杜著

つづく



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