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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



京都で紅葉と言えば、高雄の神護寺、ちょうど見頃とあったので休日に行ってきました。

神護寺金堂屋根にかかる紅葉



JR京都駅から寿司詰めのJRバスに乗って40分、山城高雄のバス停に到着、そこから清滝川が流れる谷に下り、高雄橋を渡ります。

高雄橋から見た清滝川



対岸に渡るとこんどは上り坂となり、石段を上ること15分で神護寺の楼門が見えてきますが、途中に見事なモミジの群生林がありました。



楼門(1623年の建立)の前にあるモミジの紅葉は、神護寺を代表する風景ですが、先日の嵐で葉が落ちてしまったようです。



楼門を入ってすぐ、宝蔵の前にある若いモミジが黄色から赤く鮮やかに紅葉しています。



宝蔵の隣が和気清麻呂公霊廟ですが、この周囲にはモミジが少ないようです。



和気清麻呂公霊廟の先にある石段の上の丘に鐘楼(1623年再建)があり、外からは見えませんが中には875年に造られた国宝「三絶の鐘」があります。



ひびが入ったためにこの鐘の音を聞くことはできませんが、銘の序詩は橘広相(837~890年)、銘文は菅原是善(道真の父、812~880年)、書は藤原敏行(?~907年)という序、銘、書に当代一流の名家を集めたことから三絶の鐘と呼ばれるそうです。



古今和歌集の中にある「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」は藤原敏行の代表作品です。



さて、鐘楼への石段の先には、明王堂(護摩堂)があり創建当時、この中には空海が開眼した不動明王が祀られていたそうです。



西暦939年、平将門の反乱が起きた際、反乱の鎮撫祈願のためにここから関東に移され、それが現在の成田不動尊のご本尊とされています。(矢内原伊作 著、神護寺 高山寺より)



成田山新勝寺のご本尊は、今から1070年前に高雄の神護寺にあった不動明王とは知りませんでした。


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京阪電車の伏見桃山駅で下り、東へ少し歩くと御香宮神社の大きな表門が見えてきますが、この門は、伏見城にあった大手門を徳川頼房(水戸藩祖)が1622年に移築したものと伝わる重要文化財です。

表門



御香宮神社のHPによれば、862年この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇より御香宮の名を賜ったとあり、創建から1147年の歴史を誇っています。

一の鳥居



1590年、豊臣秀吉は伏見築城に際し、鬼門除けとし外堀の北東に移設しましたが、関ヶ原の戦いの直後、家康によって元の地に再建(1605年)されています。

二の鳥居

 

家康は、この伏見城滞在期間(1601~1607年)中に10男、徳川頼宣(紀州藩祖、1602~1671年、家康59歳)、11男、頼房(水戸藩祖1603~1661年、家康60歳)をもうけ、この二人は御香宮神社の清泉「御香水」を産湯としたと伝わっています。

本殿前にある御香水(環境省の名水百選に認定)



また家康の伏見入りより2か月早く生まれた9男徳川義直(尾張藩祖、1601~1650年、家康57歳)も、御香宮神社の清泉を使って成長したと伝わっていますので、江戸時代を通じ徳川御三家からの援助が続いていたようです。

拝殿前の境内



徳川御三家の藩祖が、御香宮神社によって無事成長したことからか、今では安産の神としての信仰を集めているようです。

正保2年(1645年)紀伊国主とある石灯籠(徳川頼宣は当時44歳)



現在の本殿(重要文化財)は、徳川家康の命により京都所司代坂倉勝重を普請奉行として着手建立されたもので、豪壮華麗な大型社殿です。

本殿



近年、1990年より着手された大修理によって、創建以来390年ぶりに軒にある極彩色の壁画が復元されています。

割拝殿



割拝殿(京都市文化財)は、1625年紀州の徳川頼宣によって造営されたもので、こちらの軒にも、本殿と同じような手の込んだ彫刻があり、1997年の修理によって元の極彩色が復元しています。

割拝殿の裏にある月桂冠の雨桶



1868年、伏見鳥羽の戦に御香宮神社は官軍(薩摩藩)の屯所となり、すぐ南にあった伏見奉行所に拠った幕軍と対立していますが、どうやら戦火は免れたようです。


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沼津藩士の次男として生まれた桃井(もものい)春蔵直正(1823~1885年)は、14歳で江戸に出て3代目桃井春蔵の士学館道場に入門、剣術「鏡新明智流」を学んでいます。

桃井も見ている誉田八幡宮の南大門



すぐに剣術の才能を師匠に見込まれ、僅か17歳で4代目桃井春蔵を襲名しているので、天才的な剣豪だったようです。

南大門の正面には戎神社



士学館は、斎藤弥九郎の錬兵館や千葉周作の玄武館と並び江戸三大道場の一つに数えられ、「位は桃井。技は千葉。力は斎藤」と評されていました。

江戸時代初期に完成している誉田八幡宮拝殿



桃井は、江戸士学館で29年間を過ごし土佐藩士の武市半平太、中岡慎太郎、人切り以蔵で有名な岡田以蔵、竹刀で木の板を貫通させることができたという上田馬之助なども弟子だったようです。

拝殿から見た参道



その後1866年に幕臣となって講武所剣術教授方出役、翌年には遊撃隊頭取並として大坂城に入りますが、鳥羽伏見の戦いに反対して幕臣を辞めています。

応神天皇御陵に渡る石橋



明治維新後には、大阪府知事の後藤象二郎(土佐藩士)との縁で警察組織「浪花隊」の隊長(府警本部長)を委嘱されていましたが、明治3年に「浪花隊」が解散されたことで、誉田八幡神社の神官に転身しています。

築地塀



その神官を勤める傍ら、剣術や漢籍、書を教えていますので「位は桃井」の呼び名に恥じない文武両道の人物だったようです。

石碑に残る桃井 春蔵の書



桃井が揮毫したものとして、千早赤坂村に1878年(明治11年)5月建立された「楠公誕生地」の石碑の文字があります。

石碑の裏(明治11年5月14日には大久保利通が暗殺されている)



この石碑は、明治8年に大久保利通(1830~1878年)が楠木正成の遺跡を巡った際に設立を発案したもので、石碑の文字は大久保が書く予定となっていたようです。

四条畷にある楠木正行墓碑は大久保利通の書



桃井は、大阪で晩年の18年間を過ごし、1885年にコレラで病没(61歳)しています。

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住吉大社神代記(731年?)などの古文書には、八幡神を応神天皇(誉田別尊 ほむたわけのみこと)としてあることから、河内の応神天皇陵(誉田山古墳)に八幡宮が置かれたのは必然的だったようです。

応神天皇陵



誉田八幡宮は、継体天皇の皇子欽明天皇(509~571年)の命により、応神天皇陵の南に社殿を建立したのに始まるとされ、「日本最古の八幡宮」と称していますが、定かではないようです。

誉田八幡宮の東門



八幡宮と言えば、大分県宇佐の地に神仏習合の八幡神を祀る宇佐神宮が712年頃に創建されたと伝わっていて、全国八幡宮(4万3千社)の総本山とされています。

誉田八幡宮鳥居



宇佐神宮の創建から150年後(西暦860年)、南都大安寺の僧、行教が宇佐八幡宮からの神託を受け、男山に石清水八幡宮を創建しています。

参道から見た誉田八幡宮の拝殿



石清水八幡宮は、源義家(1039~1106年)が元服式を挙げて以来源氏の氏神となり、源頼朝が鎌倉幕府を開く際、石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮としたのは有名です。

石清水八幡宮の拝殿



誉田八幡宮は、1051年に後冷泉天皇が元の地から100m南にある現在地に造替しているので、石清水八幡宮の創建と同じような時期に置かれたのではないかと思います。

誉田八幡宮の本殿



1196年、源頼朝は社殿、伽藍を修復し、国宝の神輿や、神馬などを寄進、足利義教は、重要文化財「誉田宗廟縁起」、同「神功皇后縁起」を奉納していますので、鎌倉、室町を通じて当時の幕府から大切に保護されていたようです。

誉田八幡宮の拝殿



かつては、頼朝が奉納した神輿(現在は国宝)が太鼓橋を渡って応神陵の後円部頂上にあった御堂まで渡る盛大な祭礼があったといいます。

太鼓橋



しかし、1454年頃に始まった河内守護畠山氏の内紛によって社殿・伽藍を焼失し荒廃し、その後再興された社殿も1586年に焼失しています。

古戦場跡の碑



現在ある拝殿は、1606年豊臣秀頼が片桐且元に命じ、再建させたものですが、完成直前に大坂の陣が起きたため途中で放置され、その後、徳川家光が工事を続行して1620年代に竣工したものです。


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山崎豊子の原作は、何年か前に読んでいますが、内容が荒唐無稽だったのでかなり現実とはかけ離れているのではないかとずっと思っていました。



原作の「沈まぬ太陽」をNETで調べてみると、小説出版当初から日本航空が「会社とモデルと想定される人の名誉が毀損されている」とクレームをつけています。



映画では最後に、「この作品はフィクションです」と表示されましたが、日本航空は「日航や役員社員を連想させ、日航と個人のイメージを傷つけた作り話で利益を得ようとする行為は配慮が欠けている」と再び批判しているようです。



作者は、当初から「沈まぬ太陽」をフィクションと断っていますが、123便の御巣鷹山墜落事故を実名で表現していて、事実に基づいたドラマと勘違いする人は多いのではないでしょうか。



司馬遼太郎の作品は、歴史上の人物を実名で書いてあるために、そのまま歴史的事実と勘違いしている人も多いようですが、小説としてかなり脚色した部分があることは良く知られています。



「沈まぬ太陽」のモデルとされた正義の人物の実像は、裏も表もある人間くさい人だったようですが、それでは面白くないので作者が小説として売れるように相当脚色した結果がこうなったようです。



小説を読んだ私が荒唐無稽と思ったのは、その脚色がどうも腑に落ちなかったからで、事実にしては単純すぎるストーリーが至る所にあったからです。



従って小説も映画も、スター・ウォーズと同じような娯楽作品として気楽に楽しめば良いと思います。

海外ロケシーン



ドラマの最後のほうで主人公が、「御巣鷹山事故で家族を失った人の苦しみは、(左遷など)会社で起こる苦しみの百万倍以上」と言う感動的な場面がありました。

正義役の二人



ところが、途中にある10分間の休憩中に客席を見てみると、会社で起こる苦しみを既に超越してしまった高年齢の人ばかりだったので、吃驚してしまいました。


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USJのマジカルスターパレードを暖かい客室から観覧した翌朝、眼を覚ますと大阪市内はまだ日の出前でした。



事前にネットで調べていた日の出時刻から、少し遅れて生駒山から太陽が顔を出しました。



ホテル京阪ユニバーサルタワーの朝食(2541円)は、32階と3階にあるレストランで同じメニューの朝食が食べられます。

32階レストランの入り口



そこで、オープンする7時ジャストに32階のレストランに行ってみると、受付にはもう30人くらいの行列ができていました。



やっと案内の順番が巡ってきましたが、眺めのよい窓側の客席は、ぜんぶふさがっていて中央部分の席しか空いていませんでした。



仕方が無いのでその席に座り、バイキング方式となっている料理を大理石のカウンターに取りに行ってみると、値段の割りには意外と質素な内容でガッカリです。



パンのコーナーを見てみると、アイテムが少なく、これなら8月に泊まったビジネスホテル「松江東急イン」の朝食バイキング(半額以下の1200円)のほうがまだ良かったと思います。



ジュースコーナーには左からアップル、オレンジ、グレープフルーツ、野菜、牛乳と並んでいましたが、今回はパス。



食事の後で窓際まで近づいてUSJを見下ろすと、7時を過ぎたばかりなのにゲートにはもう行列ができていました。



ホテル京阪ユニバーサルタワーでは、超高層階からの展望料金が食事代金に含まれていると考えて、オープンの時間よりも少し早めに受付に並んで眺めの良い窓際の席をゲットすることが肝要です。


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久しぶりにホテル京阪ユニバーサルタワーに行き、ホテル高層階の窓からUSJのクリスマスツリーを見ていると、ツリーの左側に何か勢揃いしています。



ズームアップしてみると、左側の行列は、どうやらマジカルスターライトパレードのフロートのようでした。



最前列から長い行列が続き、最後尾はニューヨーク・エリア公立図書館セットに隠れて良く見えません。



7時半になるとフロートにイルミネーションが一斉点灯され、幻想的な世界が展開されます。



イルミネーションは、出番の遅い後ろのフロートも同時に点灯されましたので、観客のいないバックヤード一面がファンタジーの世界となっていました。



すぐにパレードが始まり、ほとんど途切れることの無いゆっくりとしたスピードで、フロートが次々と進行してゆきますが、ぶれないように撮影するのは、大変です。



フロートはゆっくりと動いているので、カメラの感度を上げ、早いシャッターを切ったつもりですが、やはり映像がぶれてしまっています。



それにしてもこれから寒くなるので、観客とスタッフの防寒対策が気になりますが、こうしてホテルの窓から観覧すれば観客の防寒問題だけは解消です。

最後のフロート



マジカルパレード最後のフロートが出た後で安治川内港を見てみると、こちらにも月の明かりが水面に反射しているマジカルな景色が広がっていました。




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吉野観光マップを見ると、如意輪寺は吉野の吉水神社から谷ひとつ隔てた近い距離にあり、徒歩20分とあります。



そこで、一旦谷底へ下り、小川に架かる橋を渡ってまた山道を上るという谷越えのルートを通って如意輪寺へ向かいます。



後醍醐天皇(1288~1339年)も670年前にこのルートを歩いていたのは確実だろうと思いながら、約20分で如意輪寺の山門前に到着です。



ちょうど本堂は改修工事中で、その姿を見ることができませんでしたが、後醍醐天皇の勅願寺、如意輪寺を訪ねることができました。



公式HPには、延喜年間(923年頃)文章博士三好善行の弟、日蔵道賢上人によって如意輪寺は草創とあり、後醍醐天皇時代には創建から410年、今では1086年という古刹です。

本堂の裏にある後醍醐天皇塔尾陵の看板



1336年に後醍醐天皇の勅願所となり、天皇崩御の後にはこの如意輪寺本堂東側の塔尾山御陵に北の京都の方角に向けて埋葬され、御陵も北向きとなっています。

御陵



それから8年後、四条畷の戦いに向かう楠木正行(1326?~1348年)が、一族郎党と共に参詣し、矢じりで本堂の壁板に辞世の句を刻んだことは有名です。

楠木正行の髻塚



この辞世、「かゑらじと 兼て おもへハ(バ)梓弓 なき数に入(ル) 名をぞとどむる」は、「元から生きて帰ろうとは思っていません。春(梓弓とは春のこと)には亡くなった人となっているので (生きた証としてここに)名前を書きとめておきます」という意味でしょう。



662年前のこの壁板が如意輪寺の宝物館に残されていて、400円の入場料を払えば、宝物館で正行が刻んだその文字を今も見ることができるのです。

宝物館



楠木正行の生年は不詳ということですが、太平記の通りとすれば数え年で23歳、僅か3千の手勢を引き連れて足利軍の主力、高師直勢(6万)と四条畷で戦い、其の地で自刃しています。

四条畷にある墓所(揮毫は大久保利通)



吉野から谷ひとつ隔ててある如意輪寺は、1348年の足利幕府の攻撃の際の焼失を免れましたが、一時衰退し1650年にやっと本堂が再興、今日に至っています。


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修験道の開祖、役行者(634?~706年?)が修行し、若き道鏡(700~772年)も修行したとされる金剛山は、1300年の歴史を誇る修験道場です。

金剛山の紅葉



1872年(明治5年)3月まで女人禁制であった金剛山ですが、今ではロープウエイ金剛山駅から葛木(かつらぎ)神社一の鳥居前まで、緩やかなハイキングコースを通り、25分くらいで到着できます。



鳥居を潜り、尾根道を進むと、両側に杉の巨木が立ち並び、中には樹齢500年と表示されたものもあり、おぼろげながら修験道の歴史をイメージすることができました。



石段を上がった上にある意外と広い境内には、社務所、拝殿、本殿があり、立ち入り禁止となっている本殿(1935年建立)の上部が金剛山の最高峰です。



拝殿の正面から右側に回ると、本殿を真横から眺めることができますが、こうした配置の神社は珍しいと思います。

拝殿



神社の石段を下に降り、貴船神社にあるような灯篭(楠木氏の菊水紋)が並ぶ尾根道をさらに進むと夫婦杉と呼ばれる巨木があります。



夫婦杉を過ぎ、尾根道を右に曲がると役行者が開いたとされる転法輪寺の本堂の前に出ますが、この本堂はもともと葛木神社の鎮座地にあったようで、修業道場としての金剛山は転法輪寺の歴史でもあるようです。

行者堂



「河内国名所鑑」(17世紀)の金剛山図を見ると、本堂とだけあり葛木神社の名前が見当たらないので、当時の葛木神社は転法輪寺本堂の背後に小さな祠としてあったようです。

本堂



金剛山転法輪寺は、もと金剛山寺と称し、「金剛山内外両院代々古今記録」には行基(668~749年)、鑑真(来日753~763年)、最澄(768~822年)などの来訪、899年に東寺の聖宝(832~909年)がここで修行したことも記録されています。

宿坊跡



奈良時代から平安初期にかけて著名な宗教家が修行した転法輪寺ですが、創建以来何度も焼失があり、1383年の足利義満の攻撃後、1426年にやっと再建されています。



豊臣、徳川の保護を受けていた転法輪寺は、、明治維新後の廃仏毀釈令によって土地を没収されますが、関係者の努力で宿坊跡の奥に本堂の再建(1951年)が成っています。

参考文献:金剛山記


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赤坂城を放棄した正成は、金剛山の中腹、海抜660mの場所に千早城を置き、1332年(元弘2年6月)には吉野の護良親王と同時に再度挙兵しています。



金剛山登山口バス停(標高400m)から急な石段を上ると、その城跡にたどり着きます。



今ではそこに千早神社が置かれていますが、東西南北が崖、わずかに東北東の隅から狭い尾根道が金剛山山頂に続くという要害の地です。

千早神社の由緒



鎌倉幕府軍は、今から677年前の1332年(元弘2年12月)から翌3年春まで、僅か千人で守る楠木の千早城を5万人(太平記の記述は100万騎)で攻撃しますが、結局この城は落城しなかったのです。

登山口から石段を上がった4の丸広場



篭城した楠木軍には、金剛山、吉野山、大峰山を修験道場とする山伏(7千人との説も)が護良親王の令旨によって山岳ルートを通じて補給を続けたからと言われています。

4の丸から3の丸への道



元弘3年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆船上山で挙兵したとのニュースが鎌倉軍に伝わり、関東武士団の中に遠い故郷を心配して厭戦気分が充満したようです。


2の丸にある千早神社拝殿



3月、後醍醐天皇の綸旨を受けて播磨の赤松円心が挙兵、さらに4月に足利尊氏が丹波で挙兵して京都六波羅探題を落とし、5月には新田義貞が上野で挙兵して一挙に鎌倉幕府を陥れています。

本丸跡は立ち入り禁止



幕府主力の関東武士団が千早城に釘付けとなっていたため、京都や鎌倉の守りが手薄となり、そこに攻撃を受けたために141年間も続いた鎌倉幕府があっけなく滅亡したのです。

千早城4の丸からの展望



千早城を囲んで落とせなかったことが鎌倉幕府の滅亡のきっかけとなっているので、ここは日本の歴史上見逃せない重要な場所なのです。



バス停から千早城跡に至る途中の石碑(明治31年)には、「楠公之功与此山倶高」(楠木正成の功績はこの山と同じくらいに高い)の文字は、明治の土木技術者で実業家、久米民之助(久米設計創業者の父親)の筆によるものです。


参考文献:金剛山記(金剛山総合文化学術調査委員会)


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大阪府唯一の村、千早赤坂村にある建水分神社から少し歩くと村立郷土資料館があり、その入り口の手前に石碑があります。

建水分神社前の楠公誕生地へ八町の石碑



石碑には、「楠公誕生地」(明治11年)とあり、千葉周作、斉藤弥久郎と並ぶ幕末の三剣豪、桃井春蔵(桃井直正1825~1885年)の筆によるものです。



大正6年5月には、皇太子(後の昭和天皇)が訪問され、クスノキを記念に植樹されています。



この石碑の場所から南側の畑を下った足谷川の対岸が楠木邸跡とされ、川の手前には産湯の井戸の跡が残っていました。



その楠木正成は、1331年(元弘元年9月)笠置の後醍醐天皇に呼応し、邸宅から程近い下赤坂城に篭って挙兵したために、鎌倉幕府の2万(太平記には20万騎)の大軍がここまで攻め寄せています。

千早赤阪村地図



下赤坂城は、金剛山の麓にある千早赤阪村役場から近い、赤坂中学校上の高台にある急ごしらえの貧弱な城だったようですが、大塔宮護良親王を城に迎えて楠木軍は善戦をしています。

PLの塔の左側の丘辺りが下赤坂城



しかし、ほどなく城を焼いて護良親王と共に姿を隠したために、護良親王、楠木正成と後醍醐天皇の連携を恐れた幕府は天皇を隠岐に配流しています。

隠岐西ノ島にある後醍醐天皇配流地



翌1332年(元弘2年4月)には、下赤坂城を奪還し、2キロ山側に上赤坂城を置きますが、鎌倉軍(太平記には8万騎)の攻撃を受けて又も落城しています。

上赤坂城の出城跡にある奉建塔(1937年)非理法権天は楠木軍の旗印



しかし、楠木正成率いる本隊は、上赤坂城から4キロ離れた千早城に篭もり、幕府に篭城戦を挑んでいます。(千早城については次回記述)

千早城四の丸への石段



その千早城から金剛山への尾根道の途中に楠木正儀(1330?~1389年、楠木正成の三男)の墓地と伝わる五輪の塔があります。



湊川で討ち死にした楠木正成の首は、故郷に送り届けられますが、千早城に近い此の地に埋葬されたのが正しいという説を金剛山記(金剛山総合文化学術調査委員会編)が紹介しています。

参考文献:金剛山記

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2005年9月に新築オープンしたそごう心斎橋本店は、大丸松坂屋グループ(J.フロント リテイリング)に379億円で売却されて今年8月末に閉店しています。



2009年の初出勤の日、そごう本店の門松を写真に撮っておきましたが、このそごうマークはもう見ることができません。



現在改装工事中ですが、来週11月14日土曜日、いよいよ大丸心斎橋店・北館として新装オープンするようで、御堂筋側入り口の店名もちゃんと変わっています。



また、御堂筋側正面入り口の上部にあったそごうマーク「まるにちきり」は、そごうが呉服店であったころ、呉服を織る織機の部品にちなんでマークとして使ったもので、また「ちきり」は「千切り」に通じ、堅く結びつくことも表わし、さらに形がエンドレスなところが目出たい意味も持っているとそごうHPにありました。



折角立派なマークを持って新築オープンしたそごう心斎橋本店も、顧客のニーズをうまくつかむことができず、たった4年で大丸に店舗売却という最悪の事態に追い込まれ、今ではDAIMARUマークに変わっていました。



そごう心斎橋本店が営業していた頃に長堀通り北側の横断歩道から撮った写真がありましたが、このSOGOの文字はもう見ることがないでしょう。



今では、DAIMARUの文字に付け替えられていていますが、こうしてみると最初からあるようですね。



ついでにビルの南側を見てみると、こちらもDAIMARUの文字に取り替えられていました。



さて、大丸心斎橋店・北館のオープンが近づいた御堂筋では、イチョウの黄葉がかなり進み、これから見頃を迎えるようです。





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1348年、足利軍の吉野攻撃について太平記(巻26)は、「笠鳥居、銅鳥居、仁王門、北野天神社、蔵王堂、72間の廻廊、38箇所の行化神などが灰塵となった」と記しているので、鎌倉幕府の攻撃から15年を経た吉野には既に多くの堂宇が再建されていたようです。

蔵王堂の南にある稲荷社



若い後村上天皇(1328~1368年)は、この兵火を避けて14キロ南西にある賀名生(奈良県五條市)に移って難を逃れますが、そこまでの幕府軍の追及は無かったようです。

蔵王堂



吉野にある堂々とした仁王門(国宝)もその兵火で焼失していますが、軒先に吊るしていた風鐸の銘から1456年に再興されたことが判っています。

仁王門



仁王門の背後にある金峰山寺の本堂蔵王堂(国宝)は、足利軍の攻撃から244年を経た1592年に豊臣秀吉(1537~1598年)の寄進で再興されたことが扉金具の銘から判明しているようです。



現在の蔵王堂は、高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートルもあり、現存する木造古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ規模を誇っています。



蔵王堂がある丘の敷地から西側にある急な階段を下りると吉野朝宮址という石碑が建っていて、そこに南朝の政庁が(1336~1348年の間)置かれていたようです。



敷地の最も奥には、後醍醐天皇の行宮があったとされ、今は三重塔(南朝妙法殿)が建っていました。



南朝が賀名生に移って以降、足利幕府に内訌が発生したため南朝は立ち直り、1352年に一時京を奪還、北朝の光厳・光明・崇光三上皇と皇太子直仁親王を拉致して帰還しています。



1354年、京都奪還を狙う後村上天皇は、賀名生から京に近い河内金剛寺へ移り、その後住吉大社の正印殿を行宮(住吉行宮)とし、北朝の上皇と皇太子もそこに移されています。

住吉大社に程近い住吉行宮跡



後村上天皇は、さらに京都に近い住吉に行宮を移しますが、1368年に住吉で崩御され、南朝第3代の長慶天皇が即位しています。


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大阪府唯一の村、千早赤坂村にある楠木正成一族の氏神、建水分(たけみくまり)神社に行ってきました。



この神社は、延喜式神名帳(927年)に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されていて、元の鎮座地は現在地より約100m北の水越川のほとりにあったようです。

境内の絵馬社



1331年(元弘元年)、後醍醐天皇に応じた楠木正成が、すぐ近くにある下赤坂城で挙兵、この地が鎌倉幕府軍の攻撃を受けた際に兵火にかかり一時荒廃していたようです。

左が建水分神社、右は南木神社の鳥居



しかし、建武の中興がなった1334年、後醍醐天皇の命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し、1337年正一位の神階を授けられています。

鳥居と狛犬



境内の左にある大鳥居の「正一位 水分大明神」の扁額は、楠木正行(?~1348年)が奉納した額を1705年に金銅製にして修復したものです。



大鳥居から石段を上がった場所にある拝殿からの参拝となりますが、その裏にある本殿は 中央に一間社の春日造、左殿と右殿に二間社の流造を配す全国唯一の様式で重要文化財となっています。



しかし、この本殿は、拝殿があるために残念ながらその一部が僅かに見えるだけでした。



参道を上がった正面にあるのは、祭神、楠木正成の楠を分解した南木神社で、由緒によれば、1336年に正成戦死の報を聞いた後醍醐天皇が正成の像を刻み、祀った神社です。



1697年、この地の領主石川総茂が本殿裏に祀られていた社殿を現社地へ再興、この社殿は1934年の室戸台風で崩壊しましたが、1940年に再度造営され、2004年にも修復されています。



なお建水分神社は、金剛山の総鎮守だったために、旧海軍の戦艦「金剛」(1913年完成)の艦内に建水分神が勧請され、就航後大阪港へ寄港の際には艦長以下、乗組員が千早赤坂村まで武運長久の参拝にきていたようです。

拝殿の中



1944年11月、戦艦金剛(3万2千トン)は、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、台湾の基隆沖で島崎利雄艦長(海兵44期48歳、死後中将)以下乗組員1300名と沈没していますが、完成から31年間に何度の参拝があったのでしょうか。


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今年も紅葉の季節がやってきますが、シーズンとなると京都や奈良方面の紅葉の名所はどこも行楽客であふれかえるようです。

金剛山、国見城跡のもみじ



そこで、大阪府最高峰の金剛山(標高1125m)は、意外と空いているのではと予想をつけ、行ってきました。



近鉄富田林駅から金剛バスで30分、千早ロープウエイ前から山道を少し歩くと金剛山ロープウエイの乗り場、千早駅(標高708m)です。

千早駅に近い駐車場



ロープウエイなら金剛山駅(976m)までの標高差約270m、線路全長 1323mを約6分で運んで貰えるので、ラクチンです。



金剛山駅から山上へのハイキングコースは、いくつものルートがあるようでしたが、一番楽そうな左側のコースを歩きました。



金剛山の最高峰は、葛木神社本殿の裏山となっていて立ち入り禁止でしたが、杉の巨木が並ぶ参道を通って葛木神社から転法輪寺を参拝しておきました。



転法輪寺の本堂を下りた茶屋の前のもみじが赤く色づいて見事でしたが、この当たりの標高は千mくらいでしょうか。



茶屋の下にある国見城跡の広場にも見事なもみじの大木がありましたが、紅葉までには少し早かったようなので、これからが見頃となるのでしょう。



国見城跡広場から登山道を千早城跡に向かって下ることとしましたが、この道が意外と急な上に、結構な距離がありました。



途中に紅葉の美しいポイントが何箇所かあったので、ゆっくりと眺めながら下山すると転法輪寺から金剛山登山口まで1時間もかかってしまいました。



一方、下から登ってくる登山者は、急な山道をあえぎながら下を向いたまま登ってゆくので、せっかくの紅葉を見逃していた人が多かったように思います。



金剛山は、予想通り見事な紅葉を見せてくれていましたが、登山道は結構きついので、紅葉狩りには往復ロープウエイを利用するのが正解かもしれません。



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