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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



802年、清麻呂の子息弘世、真綱の兄弟は、比叡山中にこもって修行を続けていた最澄に、高雄山寺での法華経の講演を依頼、この講演が終わると、最澄は有力者だった和気氏の推薦で唐に渡っています。



最澄は、唐から805年に帰朝して高雄山寺に入り、わが国最初の灌頂壇を開いていますので、今から1200年以上も前のことになります。



一方、空海も最澄とともに入唐し、809年に京都に戻ることが許されると高雄山寺に招かれ、この寺で空海と最澄の親交と、天台宗と真言宗の交流があったようです。



812年、最澄は大日如来の灌頂を授けて欲しいと空海に伝え、空海から金剛界灌頂と胎蔵灌頂を高雄山寺で授けられています。



その4年後、空海は高野山を修禅の道場とし、また東寺の造営を任されたために神護寺を離れたようです。



824年、河内にあった神願寺(和気清麻呂の創建)と高雄山寺が合併、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)とし、真言宗の寺院となっています。



その神護寺は、994年と1149年の二度の火災で全山壊滅の状態となっていましたが、1168年文覚(1139~1203年)が源頼朝と後白河法皇の援助で再興を果たしています。



しかし、天文年間(1532~55)には、兵火によって建物のすべてを焼失、戦国の混乱が納まった1600年に徳川家康に窮状を訴え、やっと旧来の寺領が返還されたようです。



1615年には、京都所司代板倉勝重が奉行となって神護寺の再興が着手され、江戸時代中期には堂宇7、支院9、僧坊15を数えるまでになっていました。



ところが、明治維新後の廃仏毀釈により寺域は分割解体され、支院と15坊は焼失、昭和になってやっと金堂や多宝塔などが再建されたようです。


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