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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



私の手元に、日本史研究会編集の「豊臣秀吉と京都」という本があります。



それによれば、1625年に廃城となった伏見城は、現在の大坂城に匹敵する規模があり、城郭の直径が1キロ近い巨大な城だったようです。



また大坂城の外堀から西の惣構(東横堀川)までの距離が1000mに対し、伏見城外堀から西の惣構までの距離は1400m、伏見は当時の大坂に勝るとも劣らない巨大な都市だったことが判ります。



この惣構えの中に豊臣、徳川期の大名屋敷があり、その大名の名前が地名として現存しているのが伏見の特長です。



例えば桃山町金森出雲とは、1585年に秀吉(1537~1598年)から飛騨1国(3万3千石)を与えられた金森出雲守長近(1524~1608年)の屋敷があった場所で、金森は1594年に秀吉のお伽衆を務めているので伏見城から近い場所に屋敷を賜ったのでしょう。



現在、伏見桃山城運動公園にある伏見城天守閣は、近鉄グループ遊園地のシンボルとして1964年に建てられた模擬の城で、秀吉の伏見城本丸から内堀を隔てた二の丸北側にある御花畑山荘(長束正家、近江水口12万石、1563~1600年の屋敷)跡です。



二の丸北側には、長束正家のほかに浅野長政(甲斐22万石、1547~1611年)と前田玄以(亀山5万石、1539~1602年)の屋敷、二の丸西に石田三成(佐和山19万石、1560~1600年)、二の丸南に増田長盛(大和郡山20万石、1545~1615年)の屋敷が配置されていました。

明治天皇陵への参道



この屋敷の配置を見ると、秀吉が5奉行をいかに信頼していたのかが良くわかりますが、このうち最大の石高を得ていた浅野長政だけが関ヶ原で徳川方につき、後に広島43万石の大名となっています。

明治天皇陵



現在の伏見桃山城運動公園駐車場の東側が二の丸、その先に内堀と本丸があったようですが、現在は宮内庁が管理する明治天皇御陵として立ち入り禁止となっていて、その規模が良くわかりません。

桓武天皇陵



伏見桃山城運動公園の北西には桓武天皇陵がありますが、これは明治になって整備されたもので、元の御陵は伏見城築城時に破壊された可能性が高いようです。

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