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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



吉野観光マップを見ると、如意輪寺は吉野の吉水神社から谷ひとつ隔てた近い距離にあり、徒歩20分とあります。



そこで、一旦谷底へ下り、小川に架かる橋を渡ってまた山道を上るという谷越えのルートを通って如意輪寺へ向かいます。



後醍醐天皇(1288~1339年)も670年前にこのルートを歩いていたのは確実だろうと思いながら、約20分で如意輪寺の山門前に到着です。



ちょうど本堂は改修工事中で、その姿を見ることができませんでしたが、後醍醐天皇の勅願寺、如意輪寺を訪ねることができました。



公式HPには、延喜年間(923年頃)文章博士三好善行の弟、日蔵道賢上人によって如意輪寺は草創とあり、後醍醐天皇時代には創建から410年、今では1086年という古刹です。

本堂の裏にある後醍醐天皇塔尾陵の看板



1336年に後醍醐天皇の勅願所となり、天皇崩御の後にはこの如意輪寺本堂東側の塔尾山御陵に北の京都の方角に向けて埋葬され、御陵も北向きとなっています。

御陵



それから8年後、四条畷の戦いに向かう楠木正行(1326?~1348年)が、一族郎党と共に参詣し、矢じりで本堂の壁板に辞世の句を刻んだことは有名です。

楠木正行の髻塚



この辞世、「かゑらじと 兼て おもへハ(バ)梓弓 なき数に入(ル) 名をぞとどむる」は、「元から生きて帰ろうとは思っていません。春(梓弓とは春のこと)には亡くなった人となっているので (生きた証としてここに)名前を書きとめておきます」という意味でしょう。



662年前のこの壁板が如意輪寺の宝物館に残されていて、400円の入場料を払えば、宝物館で正行が刻んだその文字を今も見ることができるのです。

宝物館



楠木正行の生年は不詳ということですが、太平記の通りとすれば数え年で23歳、僅か3千の手勢を引き連れて足利軍の主力、高師直勢(6万)と四条畷で戦い、其の地で自刃しています。

四条畷にある墓所(揮毫は大久保利通)



吉野から谷ひとつ隔ててある如意輪寺は、1348年の足利幕府の攻撃の際の焼失を免れましたが、一時衰退し1650年にやっと本堂が再興、今日に至っています。


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