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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



黒木とは、暫くすると黒く変色する樹皮のついたままの木材のことで、黒木御所とは黒木を使って急いで建てられた(質素な)御所という意味のようです。

黒木御所跡



後醍醐天皇が配流先で詠んだとされる和歌が残されていて「こころざす かたをとはばや 波の上に うきてただよふ あまのつり舟」とあり、配流先からこのような景色が見えていたのは確実です。

黒木御所跡地の歌碑



その意味は、「こころざし(倒幕)のため(脱出して帰る)方角はどちらか、波の上に見える海士(漁師と地名両方の意味がある)の舟に聞いてみたいなあ」と解釈されるようです。

海士町との間の海(高い山の右側が京都の方角)



後醍醐天皇の配流先は、島後(隠岐の島町)国分寺とする説もありますが、そこからは海が見えないので、島後配流説にはやはり無理があるようです。

史跡黒木御所



別府の黒木御所の麓に、三位の局の館跡とつたわる場所があり、後醍醐天皇に同行して隠岐に流された阿野廉子が住んでいた所と伝わっています。

三位の局の館跡から黒木御所のあった山上を見る



阿野廉子は、後醍醐天皇のあとを継ぐ後村上天皇の生母で、後醍醐天皇と共に隠岐を脱出し、後醍醐天皇を陰で支えた人物です。

三位の局の館跡



阿野廉子の墓地が河内長野の観心寺にあることは、以前にブログで紹介したことがありますが、彼女は後醍醐天皇と行動を共にして京都から隠岐、吉野、河内長野を移動しているので相当活発な女性だったようです。



後醍醐天皇配流の際の隠岐守護は、佐々木兄弟の五男義清を祖とし、鎌倉幕府末まで鎌倉の中枢にいた佐々木隠岐守清高、その守護代が隠岐判官貞清と太平記にあります。

島前代官所跡の石碑



西ノ島の別府には、その守護代が居住していたと伝わる判官屋敷跡地と伝わる場所が残されていましたが、1221年の後鳥羽上皇隠岐配流に当たって、島後から配流地中ノ島に近い(今は連絡船で6分の距離)西ノ島に守護代の居住地が移転したようです。

判官屋敷跡地



この判官屋敷のあった土地は、別府港を見下ろす高台に当たり、隠岐を統治する守護代が住む屋敷としてふさわしい場所と見ました。

判官屋敷跡地からの別府港



また西ノ島の焼火神社には、後醍醐天皇が参拝され、薬師如来と毘沙門天像を奉納された伝承が残っていますので、1332年配流された後醍醐天皇の黒木御所は、やはり別府にあったのは確実なようです。

黒木神社の鳥居




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