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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



沼津藩士の次男として生まれた桃井(もものい)春蔵直正(1823~1885年)は、14歳で江戸に出て3代目桃井春蔵の士学館道場に入門、剣術「鏡新明智流」を学んでいます。

桃井も見ている誉田八幡宮の南大門



すぐに剣術の才能を師匠に見込まれ、僅か17歳で4代目桃井春蔵を襲名しているので、天才的な剣豪だったようです。

南大門の正面には戎神社



士学館は、斎藤弥九郎の錬兵館や千葉周作の玄武館と並び江戸三大道場の一つに数えられ、「位は桃井。技は千葉。力は斎藤」と評されていました。

江戸時代初期に完成している誉田八幡宮拝殿



桃井は、江戸士学館で29年間を過ごし土佐藩士の武市半平太、中岡慎太郎、人切り以蔵で有名な岡田以蔵、竹刀で木の板を貫通させることができたという上田馬之助なども弟子だったようです。

拝殿から見た参道



その後1866年に幕臣となって講武所剣術教授方出役、翌年には遊撃隊頭取並として大坂城に入りますが、鳥羽伏見の戦いに反対して幕臣を辞めています。

応神天皇御陵に渡る石橋



明治維新後には、大阪府知事の後藤象二郎(土佐藩士)との縁で警察組織「浪花隊」の隊長(府警本部長)を委嘱されていましたが、明治3年に「浪花隊」が解散されたことで、誉田八幡神社の神官に転身しています。

築地塀



その神官を勤める傍ら、剣術や漢籍、書を教えていますので「位は桃井」の呼び名に恥じない文武両道の人物だったようです。

石碑に残る桃井 春蔵の書



桃井が揮毫したものとして、千早赤坂村に1878年(明治11年)5月建立された「楠公誕生地」の石碑の文字があります。

石碑の裏(明治11年5月14日には大久保利通が暗殺されている)



この石碑は、明治8年に大久保利通(1830~1878年)が楠木正成の遺跡を巡った際に設立を発案したもので、石碑の文字は大久保が書く予定となっていたようです。

四条畷にある楠木正行墓碑は大久保利通の書



桃井は、大阪で晩年の18年間を過ごし、1885年にコレラで病没(61歳)しています。

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