◆どしゃぶりのなかを歩くように詩を読みつづけことが、これまでに2度ある。 1度目は(少し前にも書いたことだが)30歳代の後半、紙の上に小さな町を創り、その「町」から学校(大館中)に出勤し、夕方、またその「町」に帰るという生活をしていた頃だ。 自分の存在の仕方やものの見方に新たな角度を提示してくれる詩句を書き写しながら読んでいった。 来る日も来る日も、その作業をつづけているうちに、語と語のあいだの息づかいが緊密で、胃と食道のあいだが引き裂かれる抑圧を感じる詩人に出くわした。 『わがひとに与ふる哀歌』の伊東静雄だった。 ■2度目は、それから約10年後、自分の計画性のなさと組織を運営する力の弱さから、抱えきれない仕事にアップアップする日々がつづいていた。 深夜、校舎の巡回中に、図書室の詩集コーナーの前に立ち「このピンチを脱したら、ここの椅子に座り、これらを全部読もう」と思った。 やがてその日がやってきた。 来る夜も来る夜もひとり読みふけっているうちに、ある詩人のところで、自分が音もなく透明に消え去る恍惚感を覚えた。 高村光太郎だった。 ■前置きが長くなってしまった(*=ω=*)ゞテヘヘ 駐車場脇に赤いレンガづくりの小さな食堂がある。 メニューに「光太郎そば」「冷やし光太郎そば」というのがあった。 せっかくだから「冷やし光太郎そば」を注文する。 「よくかき混ぜて食べてください」と女主人がテーブルに運んできたそばの上には、ネギ、納豆、卵、ワサビなどが盛りつけられてあった。 20歳の頃、一度やってきたことがあるが、この店のことはまったく記憶にない。 そのときは、案内してくれた土地の人がもってきてくれた弁当を、草木の生い茂る智恵子展望台で食べた。 ■光太郎は昭和20年から、昭和27年10月、青森県から要請された十和田湖国立公園功労者顕彰記念碑の彫像制作のため上京するまでの7年間、ここで農耕自炊の生活をしている。 夜、ひそかに山小屋を抜けだして花巻の街に出て飲食をしたこともあったらしい。 そのときの光太郎の道が、宮地裕氏の「がたがた道」であり、また今さっき、わたしがはなむけ号で走りぬけててきた道だと思っている。 にほんブログ村 ★わたしの公式ホームページにも、ぜひ、来てください。公式ホームページには、トータルの、全身の、わたしが存在します。待ってまっせぇ~ィ !!!!!!!!!! ☆公式ホームページへ ★わたしのWEB無人駅線のページにも、ぜひ、来てください。あっというまに、魂が無人駅線の世界に、全身、移動できます。待ってまっせぇ~ィ !!!!!!!!!! ☆WEB無人駅線ページへ |
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