◆しばらく閉鎖していた、喫茶「キハ48」を再開店することにした。
指を折って数えてみると、再開店は、半年ぶりである。
喫茶「キハ48」というのは、なにか?
みなみ在職中、休日の朝、近所の喫茶店(ホテル1Fの喫茶コーナー)で、ひとり、ポツンと瞑想する習慣があった。
他の人と共に存在している。
他の人の視線にサラされている。
だけれども、独りぼっち……という空間だ。
図書館の自習室も、これに似ている。
映画館もそうかもしれない。
わたしは、この状態を「開かれた孤独」といっている。
日常空間と、完全とじこもり空間の中間で、日常のプレッシャーが適度に軽減され、わたしの場合、頭が冴えるのだ。
あるとき、ふと、この空間(わたしの場合、近所のホテルの喫茶コーナー)を、そっくりJR八戸線乗車に切り換えてみたらどうだろうか?と考えた。
街なかを、トロトロとローカル線が走っている。
鉄道も大好きだ。
一石二鳥ではないか。
こうして実現したのが、動く喫茶店「キハ48」だ。
喫茶「キハ48」の一時閉鎖から再開店までの半年のあいだに、(1)みなみ退場と、その後、(2)「自分のカタチ」がひしゃげて(新たにひしゃげたのか? ひしゃげていたものが元にもどったのか?は、まだわからないが)、自分が変異するという体験をした。
この体験と、喫茶「キハ48」再開とは、密接不離の関係にあるにちがいない。
どう密接不離なのかは、ひしゃげたかの、元のカタチにもどったのかと同じように、自分ではまだよくわかっていない。
◆はなむけ号(折りたたみ自転車)を本八戸駅の駐輪場にロックする。
早朝なのに、自転車がたくさんあるのは、高校生たちが、夕方、学校が終わり駅まで乗ってきて、駐輪場に置いて、八戸線に乗って家に帰っていくからだ。
切符の自動販売機前で行き先を決める。
通常、喫茶「キハ48」は、本八戸駅→金浜駅→本八戸駅(往復680円)だ。
しかし、きょうは、ひさしぶりだから、奮発して、本八戸駅→階上駅→本八戸駅(往復800円)にする。
早めに駅に着き、プラットホームを行ったり来たりする時間は、大旅行の出発前と同じで、なんともいえない、ワクワクした気分になる。
女性が1人、列車を待ちながら、携帯メールを打っている。
もうすぐ、05:46発、久慈行きの列車がやってくる。
なお、大部屋の教職員室も、開かれた孤独空間に似ていなくはない。
わたしは教職員室が好きだ。
大部屋人生もいいもんだと思ってきた。
しかし、同僚や生徒の視線は「他の人」の視線のように、サラッとはしていない。
だから、好きな空間だけれども、「開かれた孤独」空間とはいいにくい。
◆では、通常の喫茶店(近所のホテルの喫茶コーナー)と、喫茶「キハ48」とは、まったく同じなのかというと、ま、わたしが求める「日常の負荷が軽減された、思考が活性化される、開かれた孤独空間」に至ることができるという点では同じだが、やはり、精神的な作用は、微妙に違うものがある。
喫茶店のほうは、ドアの前に立ち、ドアを開けると、喫茶店の内部に封印されていた、ドアを開ける直前(=現時点)とは異なる時代の空気が、パァーッと顔をうってくる。
ある日、ドアをあけると、ドアの向こう側は、土手町から少し入ったところにあった(今もある?)喫茶「ひまわり」だった。
入口近くの階段を2階にあがる。
2階の奥の席では、既に同人雑誌の仲間たちが集まっていて、侃々諤々、編集会議をやっている。
『コップのなかの嵐』の宣治がいる。
『現代狂詩曲』の今井がいる。
『夜明けの汽車』の田中がいる。
そして、このページでおなじみの「おっさん」(←もちろん、今の「おっさん」ではなく、学生時代の「おっさん」)もいる……というような日もある。
ドアの内側の空気が、いつも、懐かしい空気ばかりとは限らない。
悲しく切ない空気もある。
ま、悲しく切ない空気も、悪くはない。
まとめると、「日常の負荷が軽減された、開かれた孤独空間」+「現時点とは異なる、過去の時代の空気」ということになる。
◆喫茶「キハ48」のほうは、これとはちょっと違うところがある。どこが違うのかというと……といっているうちに、1番列車が2両連結でやってきた。
05:37八戸発、久慈行きだ。
1両目先頭の停車位置に立つわたしの前のドアが開く。
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