職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

高村祭③ 光太郎の戦争責任

2009-05-18 11:24:14 | Weblog

★高村祭。花巻市副市長のあいさつ。市民代表として光太郎と花巻市民の関係を語るいいあいさつだった

◆今、高村祭の記事を連続してアップしている。
 高村祭は5/15午前10時~午後2時までで、わたしがアップしたのは、午前10時09分の時点までだから、HP上の高村祭はこれからまだまだつづくのだが、きょうは、別のことから書きはじめることにする。

 けさ、目が覚めたとき、ふと「ホームページの更新をいつやるか?」……ということが、気になったからだ。

 みなみ在職時は、夕食後、飲みながら(発泡酒orウィスキー)やっていた。
 飲みながらやりたくないが、この時間しかなかった。
 で、今、みなみ退場後はというと、夕刻、夕食前にやっている。
 「ふと気になった」というのは、このどちらもマズイのではないかと考えたからだ。

 「飲みながら」……というのは、もちろんマズイ。
 理由は2つある。
 1つは、飲みながら更新作業をやっているうちに、PC前で眠ってしまい、(HP更新作業の工程は、ブログと異なり、画像ひとつとってみても、大きさを縮小したり、品質を調整したりと、結構、複雑で)次に目が覚めたとき、どの作業からどの作業に移ろうとしていたのか、わけがわからなくなることがある。(ここから、わけがわかるような状態にもどすのが、すごくたいへんなのだ。)
 もう1つは、文章の質だ。
 前半は比較的いいのだが、後半はあやしくなる。
 ぼんやりして論理的でなくなるということもあるが、そのこと以上に、酔いのせいで気宇壮大というか豪胆無比というか、論じている内容、いや、論じていること自体が「もう、どうでもいい」という気分になってしまうのだ。

 みなみを退場してからは、さすがに飲みながら更新作業をするということはなくなった。
 しかし、現在の「夕刻、夕食前」というのも、理由はバカバカしてので省略するが(/▽\)、「飲みながら」以上に、マズイ。


★高村祭。花巻東高校生による詩の朗読。

◆ということで、昨夕の「光太郎が、わたしの精神の内側に沿って魂の底に侵入したことが、これまでに2度ある。1度目は……」というくだりを、「飲みながら」でもない、「夕食前」でもない、時間帯に書き直すことにする。

 現在の時刻は、07:30である。

 大東亜戦争下の詩人たちの戦争期から敗戦期に至る精神の変遷を取りあげたわたしの卒論は、難航する。
 理由を粗くいうと、戦争期に、戦争の趨勢に関する、特別な情報をもたず、ただ軍艦マーチが鳴ればよろこび、海行かばが流れれば哀しみという具合に一喜一憂する、その詩人の内面については、感情移入が比較的やりやすかった。
 それにくらべ、敗戦期の、(昨夕の表現でいえば)深い挫折感、あるいは一種の解体現象については、追体験がむずかしかった。

 具体的に例をあげる。
 伊東静雄の「夏の終り」だ。

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳は
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田(みづた)の面(おもて)を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる
   「反響」(昭和22)所収

 「夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲」というのは、台風のような戦争期を生きぬいて、その哀しみを、ひとりの日本人としてうけとめている静雄の自画像であると考えていいだろう。
 そして、「気のとほくなるほど澄みに澄んだ/かぐはしい大気の空をながれてゆく」というこの「空」は、あの8月15日の空の青さを反映しているのだろう。
 こういうふうに頭では、静雄のこの作品に、亡国の民の、敗戦の哀しみが定着されている……とわかるのだが、戦後生まれ、育ちのわたしには、どうしても感情移入ができないもどかしさがあった。 ずっと逆立ちしていたいくらいの心境で、卒論用の原稿用紙を眺めていた自分を覚えている。


★高村祭。花巻高等看護専門学校生による詩の朗読

 わたしは、このときに、光太郎の「一億の号泣」に出会う。(もちろん『智恵子抄』の作者としての光太郎は既に知っていた……。)

 再掲する。

綸言一たび出でて一億号泣す。
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず。
玉音ひびき終わりて又音なし
この時無声の号泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
宸極に向かってひれ伏せるを知る。
微臣恐惶ほとんど失語す。
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす。
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん。
  (昭和二十年八月十六日午前花巻にて)

 昨夕の繰り返しになるが、戦争責任に服しつつも、「鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのづから強からんとす。/真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」と、批正すべきは批正し、貫くべきは貫き、背筋を伸ばして、新しい生活を切りひらいていこうとする強靱な精神構造との対比において、静雄の、亡国の民の、敗戦の哀しみを理解することで、学生時代のわたしは、この問題に関して「諒とする」ことにした。

 なお、今「戦争責任に服しつつ」といったが、文学者の戦争責任というものに軽重があるとすれば、光太郎のそれは最も重い。
 大政翼賛会中央協力会議委員、文学報国会詩部会長という立場に加え、吉本隆明などは、昭和16年読売新聞に発表された「全国の工場施設に美術家を動員せよ」等の「公的な文学活動」および「庶民の指導者」としての詩業を厳しく批判している。
 ただ、わたしは、そのことをもって「最も重い」といっているのではない。
 光太郎自身が「我が詩を読みて人死に就けり」といっているように、その詩、それを戦争詩というのであればそれでもいい、その詩の、現在の評価軸では評価しきれない、おそらくは後の世で再評価されるであろう、その作品の、とてつもない、ずばぬけた質の高さにおいて、光太郎の戦争責任は「最も重い」といっているのだ。


★高村祭。花巻市立太田小2年生による楽器演奏と旧山口小校歌の合唱(10:45)

◆みなみ在職時代、通常、06:50学校着を、「ひとりサマータイム」と称して、05:50学校着にしていた期間がある。
 たしか6月いっぱいだったと思う。
 何にもわずらわされることなく、真空のなかで文字が書ける、最適の時空間だった。
 書いた文字の量でいうと、たぶん、このサマータイム期間が、これまでの最高だろう。
 ただ、このサマータイムは、6月いっぱいで終わる。
 理由は、これをやると、午後4時~5時という、諸会議が密集し、結構、重大な判断をしなくてはいけない時刻に、もう既にへばってしまっているという欠点があったからだ。

 「ホームページの更新をいつやるか?」
 みなみ退場後のわたしに、もう諸会議の密集時間帯はない。
 「ひとりサマータイム」、いや、「超・ひとりサマータイム」復活というのもいいかもしれない。






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