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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日本国政府は「日本版エンティティ・リスト」の作成を

2020年10月16日 12時33分23秒 | 日本政治

 報道によりますと、日本国政府は、アメリカが提唱している「クリーンネットワーク計画」への参加を断ったそうです。政府のこの判断につきましては、日本国民の多くが不安を感じるのではないでしょうか。何故ならば、情報通信分野では、既に、中国の影が日本国政府に忍び寄っているからです。

 

 5Gに関する政府調達については、日本国政府は、早い段階でアメリカの方針に同調し、中国製品の排除を決定しています。このため、日本国民は、政府は中国製品に対して締め出しに動いているとイメージを懐きがちです。しかしながら、現実には、アメリカによる制裁の発動後でありながら、総務省、文科省、農水省の三省は、中国のセンテンス製のAI顔認証監視カメラをソフトバンク経由で本省に設置しているというのです。センテンス・グループが、アメリカの「エンティティ・リスト」に含まれているにも拘わらず…。

 

アメリカ政府が作成している「エンティティ・リスト」とは、いわば、不適切な通商相手を定める‘ブラックリスト’です。同‘ブラックリスト’への登録は、アメリカの安全を脅かすか否か、という安全保障の観点に加え、核開発といった国際法違反やウイグル人弾圧への制裁としての人道問題等も基準として設けられており、ロシア、イラン、北朝鮮、並びに、中国の企業がリスト入りしています。もっとも、中国企業がロシア、イラン、北朝鮮に対して製品を供給しているケースが多く、事実上、ファーウェイ、ハイクビジョン、ダーファ・テクノロジー、そして、センスタイム・グループといった中国のIT大手が主たるターゲットです。

 

北朝鮮やイランの核開発は、直接的であれ、間接的であれ、日本国にとりましても安全保障上の脅威ですし、国際社会もまた、これらの諸国に対して国連制裁をはじめ厳しい経済制裁を科しています。核やミサイル開発は、アメリカ一国の国益に関わる問題ではなく、日本国を含む国際社会全体の問題なのです。しかも、最大の制裁対象国である中国は、国際法違反の常習犯なのですから、これまで国際的な制裁を逃れてきたこと事態が不自然であったとも言えましょう。とりわけ日本国は、尖閣問題を含め中国からの直接的な軍事的脅威に直面していますので、率先して中国排除に動いてよいはずなのですが、何故か、政府は、対応措置を採ろうとはしていないのです。これでは、日米同盟を考慮すれば、アメリカに対する背信行為とも見なされかねませんし、国際社会の平和に対して背を向けていると批判されても致し方はありません。

 

さらに日本国政府に対して懸念されることは、‘何もしない’どころ、自ら親中の方向に動こうとしている点です。日本国民が知らない間に、日本国政府は、情報通信分野において中国を呼び込んでおり、それは、日本国が中国を中心とした「ダーティーネットワーク計画」に絡めとられる可能性を示しています。アメリカによる対中政策が発動された後にあって、総務省、文科省、農水省の三省は、「エンティティ・リスト」に載るセンテンス・グループのAI顔認証監視カメラをソフトバンク経由で設置したことは、先に述べましたが、同センテンスの製品には、遠隔修理を名目とした‘本社への通信ソフト’が内蔵されており、それが、‘バックドア’として機能するというのです。日本企業も顔認証ステムの開発に取り組んでおり、中国でも一部日本製が採用されているそうですが、通常、政府は、多少は割高であっても、情報管理や産業政策の側面から自国製品を導入するものです。ところが、日本国政府は、敢えて政府関連を含む情報が中国に筒抜けとなるリスクを無視し、中国製品を導入しているのです(総務省、文科省、農水省に出入りした人物は全て中国にチェックされている…)。

 

こうした日本国政府の行為は、アメリカに留まらず、日本国民に対する背信行為となるのではないでしょうか。日本国民からしますと、政府が自国民を‘デジタル情報’という形で中国に引き渡したかのように感じられます。「クリーンネットワーク」への不参加の件も、アメリカからの招待を、政府が国民に賛否を問うこともなく、勝手に断ってしまったということになりましょう。情報通信分野における市場開放は、経済活動のみならず、個々の国民生活の細部にまで外国の通信網が入り込むことを意味しますので、情報化時代にあってはとりわけ‘リモート監視’、あるいは、‘リモート支配’になりかねず、国民の安全や自由に直結する重要問題です。

 

「クリーンネットワーク」への参加を断るに際して、日本国政府は、自国独自で対策を講じる旨をアメリカ側に伝えたそうです。センテンス製品の採用例からしますと、この弁明も怪しい限りですが、独自路線を選択するならば、「日本版エンティティ・リスト」を作成し、それを内外に向けて公表しないことには、日本国民は納得しないのではないでしょうか。国民に隠れて陰でこっそりと政府が中国製品を使うようでは、日本国政府に対する信頼は低下の一途を辿るばかりではないかと思うのです。


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日本学術会議の倫理判断―科学技術の利用目的の問題

2020年10月15日 12時24分13秒 | 国際政治

 世の中には、上手にコントロールしませんと、悪用されてしまうものがあります。‘力’などは、その使い方によっては正義を実現する場合もあれば、暴力に堕する場合もありますので、その最たるものなのですが、テクノロジー、即ち、科学技術の使い方もその一つと言えましょう。科学技術の利用目的については、今日、日本学術会議の基本的なスタンスと関連して、今一度、考えてみる必要がありそうです。

 

同会議は、科学の利用を平和目的に限定しており、1950年以来、‘戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意’を表明しており、この基本方針は今日まで継承されています。2017年には、改めて自衛隊に対する研究協力を拒絶する姿勢を確認しています。この決意表明は、科学技術の利用目的について、同会議が明確なる倫理判断を行っていることを示しています。

 

科学技術の目的については、倫理的な判断から一定の制約を課すこと自体は、間違った行為ではないのでしょう。何故ならば、科学技術の利用目的に対して何らの制約も課さないとしますと、地球を破壊することも、人類を滅亡させることも簡単にできてしまうからです。この意味において、科学技術の利用目的を定めるに際しては善悪の判断を伴うのですが、果たして、日本学術会議が定めた戦争を目的として科学技術の研究の禁止は、悪を退けて善を選択したことを意味するのでしょうか。同会議の方針については、二つの側面から疑問が提起されるのではないかと思うのです。

 

第一の側面とは、国際法において正戦論として議論されてきた問題であり、かつ、日本国憲法第9条の問題とも関連しています。‘正しい戦争とは、存在するのか’という問いかけに対しては、正反対の二つの回答があります。一つは、全ての戦争は無条件、かつ、無差別に悪であるとする戦争絶対悪説であり、もう一つは、正当な権利を侵害する行為に対する正当防衛や暴君による国民に対する虐殺や弾圧等を条件として、正しい戦争を認める正戦論です。

 

日本学術会議の見解は前者に全面的に依拠するのですが、今日の国際社会は、後者の説に基づいて制度設計がなされています。例えば、国連を枠組みとした集団的安全保障体制では、平和に対する脅威、即ち、侵略等が発生した場合には、それを抑止するための警察活動的な文脈における軍事行動が、すべての国に許されています。そして、国連憲章第51条が定めるように、主権国家には正当防衛としての自衛権が認められていますので、戦争=絶対悪の立場は採らないのです。仮に、国際社会の秩序を維持するための制裁としての軍事力の行使や正当防衛権までも否定してしまいますと、逆に、悪しき侵略国家がのさばることとなり、善ではなく、悪に貢献することになるからです。この観点からしますと、日本学術会議の自衛隊への研究協力拒絶は、悪への消極的協力ともなり得ましょう(ましてや、間接的であれ、中国の軍事技術の向上には貢献したとなれば、悪への積極的協力ともなる…)。

 

第二の側面は、悪とは、戦争のみに限定されないことです。たとえは、日本学術会議は、情報通信技術の分野における中国との研究協力に対しては、何らの禁止声明を発してはいません。しかしながら、同技術は、アメリカで既に制裁が発動されているように、ウイグル人に対する弾圧に使用されていますし、全国民に対する徹底的な監視体制の構築を可能としました。非民主的、かつ、独裁体制を敷く共産主義国家、あるいは、全体主義国家との研究協力は、それが間接的であれ、人権弾圧を援ける行為となるのです。これは、明白なる技術の悪用ですので、日本学術学会は、倫理的な判断を成すならば、人権弾圧に資する技術に対しても厳しい姿勢で臨むべきではなかったかと思うのです。因みに、ウイグル人弾圧を阻止すべく、アメリカ政府は、既に人権侵害に関与したとして中国人や中国企業に対して制裁を科しています。

 

以上に二つの側面から日本学術会議の倫理的判断の妥当性について述べてきましたが、その現行の判断には異論が続出しそうです。科学技術の目的を人類の普遍的な価値への貢献に限定するとしても、正当防衛に関する技術の研究は認めるべきであり、況してや、中国といった全体主義国家との技術協力は、軍事部門はおろか、全ての分野において堅く禁じるべきではないかと思うのです。


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アメリカ大統領選挙と対中感情悪化の奇妙な不一致

2020年10月14日 12時48分41秒 | 国際政治

 報道によりますと、来月11月3日に予定されているアメリカ大統領選挙の勝敗予測は、現職のトランプ大統領が劣勢な状況にあるそうです。民主党が擁立するバイデン候補の圧倒的な優勢を伝えるメディアが大半を占めるのですが、その一方で、同氏の親中派としての基本的なスタンスを考えますと、バイデン候補の当選は、アメリカ国民にとりましては悲劇となるはずです。

 

 大統領選挙にあって親中派の大統領の誕生が予測される一方で、新型コロナウイルスのパンデミック化もあって、対中感情を問う世論調査では中国に対する感情は悪化の一途を辿っているそうです。中国に対して悪感情を懐く率は過去最高を更新し続け、10月6日に公表された米国の大手調査会社ピュー・リサーチ・センターによって実施された世論調査の結果では、73%の人が否定的な回答を寄せています(因みに、調査対象14カ国のうち、最も反中感情が高かったのは86%の日本国)。同社が4月に実施した同様の世論調査の結果では66%でしたので、半年間で凡そ7%も反中率が増加したこととなります。

 

 今日、対中政策が大統領選挙における論点となるに至ったのは、中国が、もはや‘国外の問題’ではなくなったことによります。従来、アメリカ国民は、内政には強い関心を示しても、外政に対しては然程の関心を払っていないと指摘されてきました。しかしながら、グローバリズムが中国を軸として全世界に拡大するにつれ、アメリカの一般市民もまた、中国の影響から逃れなれなくなります。これまでは内政の領域に留まっていた失業問題なども、その主要な要因が、景気の一般的な変動ではなく、グローバリズムによる先進国の産業の空洞化に移るに至ると、中国問題は、アメリカ国民の生活と直接的にリンクしてしまうのです。前回の大統領選挙にあって、トランプ大統領が当選を果たしたのも、今まで水面下に隠れていた中国問題を政治の表舞台に引き上げ、アメリカ国民を覚醒させたからなのでしょう。

 

 かくして中国問題は、アメリカ国内にあって内部化、否、日常化されたのですが、中国の脅威は、経済分野に留まりません。30年後には中国の軍事力はアメリカを抜いて世界第一となる予測がある上に、今日にあっても、ITやAIを軍事転用すると共に、極超音速兵器など、既に最先端の軍事技術においてはアメリカに優っている兵器も出現しております。また、中国は、‘超限戦’の名の下で、テロを含む官民の一体化した戦略で多方面同時攻撃の戦争を仕掛けてくるものと予測され、人道法や戦争法を誠実に順守するとも思えません(‘新しい戦争’という名の大量虐殺となるかもしれない…)。

 

そして、莫大なチャイナ・マネーは、アメリカを全体主義に向けて静かに染め上げてゆくことでしょう。経済のみならず、あらゆる面において中国はアメリカ国民を直接に脅かす存在となりつつあるのですから、今般の大統領選挙は、アメリカの未来を決する転換点ともなり得るのです。

 

 こうした状況からしますと、高率の対中感情と高率のバイデン候補支持率とを示す世論調査は、真逆とも言うべき‘ちぐはぐ’な結果のように思えます。自らの立場を曖昧にしてきた中国が、遂にバイデン候補への支持を表明したとも報じられておりますように(もっとも、バイデン支持を明らかにすることで、反中票をトランプ大統領に投じさせる高等戦術かもしれませんが…)、バイデン政権の誕生は、アメリカにおける親中政権の誕生を意味しかねません。少なくとも、オバマ前政権にあって副大統領を務めたバイデン氏の子息であるハンター氏が、投資事業にあって中国利権を有していたことは明らかです。親と子は違うとする責任分離の弁明もありましょうが、ハンター氏が中国利権を獲得したのはバイデン氏が副大統領として訪中した際の出来事ですので責任分離論は通用せず、同疑惑からは、むしろ、公職を私的に利用し、権力を私物化していたバイデン氏の姿が浮かび上がるのです。

 

 興味深いことに、高い反中率を示す一方で、アメリカ大統領についてはバイデン候補の当選を望むという自己矛盾とでも言うべき態度は、世論調査によれば、アメリカのみならず、欧州各国でも共通に見られる現象なそうです。アメリカ国民の多くが、自国における親中政権の誕生を望んでいるとしますと、それは自滅行為ともなるのですが、アメリカ国民は、トランプ大統領の人柄や振る舞いを嫌うばかりに中国を利し(確かに、同氏に対しては眉を顰める人々の気持ちも理解できる…)、国際社会における中国の横暴を許してしまうのでしょうか。

 

昨日のNHKのニュース9では、新型コロナウイルスから回復したトランプ大統領の遊説とバイデン候補の選挙演説の様子を報じていましたが、会場へ向かう道が長蛇の列となった前者の方に勢いが見られ、メディアが報じるバイデン候補圧勝の予測も疑わしく思えてきます。前回の大統領選挙でも、大方の予測に反してトランプ大統領が当選しましたが、選挙の結果は、蓋を開けてみなければ分からないのかもしれません。何れにしましても、アメリカ国民の選択が、中国、あるいは、その背後勢力による世界支配計画の実現を援けることがないよう祈るばかりなのです。


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日中互恵関係は幻想では?

2020年10月13日 11時44分37秒 | 国際経済

 グローバリズムでは、企業規模であれ、市場規模であれ、規模に優る側が圧倒的に有利となります。スケールメリットが強く働く限り、中小規模の企業は淘汰されるか、規模の大きな側に買収されて消え去る運命が待ち構えているのです。グローバリズムにおける主要な勝因は‘規模’ということになるのですが、この側面からしますと、ロジカルに考えれば日本と中国との間の互恵関係はあり得ないという結論に達せざるを得ないのです。

 

 日本国と中国とを比較しますと、市場規模において凡そ10倍程の差があります。人口14億人を擁する中国にあっては、生産量、消費量、労働人口、貿易額など、あらゆる数値において日本国を上回ります。グローバル時代ともなれば、モノ、サービス、労働力、資本などが国境を越えて自由に移動できますので、自国の国内市場を基盤として政府主導でグローバル企業を育てた中国は、市場規模をさらに広げることができるのです。

 

また、広大な領土を有する中国は、レアアースなどの鉱物資源にも恵まれていますし、面積の広さは、インフラ事業等においてもスケールメリットを追求することができることを意味します。例えば、高速鉄道の事業にしても、中国企業は、自国内における高速鉄道網建設プロジェクトに際して構築した大量生産体制を以って、海外諸国に対しても安価に輸出することができます。工業生産品のみならず、中国は、インフラ事業においても強がみを持つのです。

 

以上に簡単に述べたように、グローバル時代にあって、中国は、その自然条件からして圧倒的に有利な立場にあります。市場規模において中国に匹敵するのは、人口が同国と同程度の14億人に迫るインドぐらいしかないかもしれません。言い換えますと、グローバル時代にあって、日本国は、中国に対して勝ち目はなく、‘互恵関係’が成立するとすれば、それは、決して両国対等なものではなく、中国中心の‘グローバル経済圏’において日本国に対して一定の下請け的な分業が割り当てられた状況を意味するのでしょう(たとえ、画期的な技術を日本国のスタートアップなどが開発しても、資金力に優る中国企業に買収されてしまう…)。おそらく、中国側の構想としては、国際分業における日本国の役割とは、中国人向け観光地、高級農産物の生産地、並びに、ハイテク製品の素材提供地(もっとも、中国が内製化できるまでの間…)なのかもしれません。実際に、日本国政府も、この方向に向けて動いているように見えます(インバウンド歓迎、農産物の輸出拡大政策、並びに、プランテーション化を想定した?移民労働者の受け入れ拡大…)。

 

規模を軸にグローバリズムの行く先を予測しますと、日本国の将来は暗いとしか言いようがないのですが、こうした悲観的な予測に対しては、中国が自国市場を完全に開放し、中国企業と他国の企業との間に競争条件を等しくすれば問題はない、とする反論も返ってくるかもしれません。しかしながら、中国は、今日、最先端のITを用いて徹底した国民監視体制を敷いていますので、一党独裁体制の崩壊はますます見込みが薄くなっています。また、イデオロギーにあって政経が一致していますので、中国共産党が、経済に関する権限、否、利権を放棄するはずもありません。しかも、中国の技術力に裏打ちされた経済力は軍事力と直結しているのですから、日本国は、軍事的な脅威にも直面することとなりましょう。つまり、グローバリズムを推進すればするほど、権力と富は共産党、並びに、中国に出資している国際金融組織に集中し、‘暴力とテクノロジーとマネー’によって同体制が強化されてしまうのです。

 

言い換えますと、‘日本国は経済分野にあっては中国との結びつきを強化すべき’と唱えている親中派の人々は、‘中国は変わらない’が現実であれば、日本国に対して、自滅に向けてアクセルを踏むように勧めているようなものです(もっとも、中国から特別に‘分け前’をもらっている少数の人々や企業にとりましては、‘私的な互恵’が成りたつ…)。日本国の未来は中国と結託したグローバリズムの先にはなく、むしろ、中国とのデカップリングを含む保護主義的な方向への転換こそ模索すべきではないかと思うのです。


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政府VS.日本学術会議の非難合戦は‘中国問題’?

2020年10月12日 12時48分41秒 | 国際政治

日本学術会議が推薦した新会員リストにあって、菅新首相が6名の候補者の任命を拒否したことから、目下、政府と日本学術会議との間で双方の応援団を交えた激しい非難合戦が発生しています。両者とも一歩も譲らずの姿勢を貫いており、かつ、野党側が政府批判の材料に利用しようとしていることから、この問題、さらなる混迷も予測されます。

 

日本学術会議に対する批判の核心は、同会議が、日本国の自衛隊に対する研究協力を拒みながら、中国に対する研究協力については積極的であった点が挙げられます。日本国政府は、この点については明確にしていませんが(中国への配慮が、首相が任命拒否の理由開示を拒む理由なのでは…)、ネット上やSNS上の意見を読みますと、同会議に対する批判点は対中協力に集中しています。実際に、同会議は、2015年には中国科学技術協会と覚書を交わしていたのは事実ですし、同会議の会員には中国の千人計画への参加者も見られるそうです(仮に、これが事実であるのならば、同会議は、仮想敵国への便宜供与を奨励したことになり、同会議には刑法の外患誘致罪が適用されるのでは?)。同会議側は‘根拠がない’として懸命に否定していますが、国民からしますと、日本学術会議が、内部から日本国を弱体化へと導く一方で、中国の軍事大国化には協力しているようにしか見えません。仮に、同問題が中国がらみではなかったならば、ここまで騒ぎが大きくなることはなかったことでしょう。

 

その一方で、政府に対する日本学術会議に対する批判点とは、菅政権の‘独裁体質’です。今般の問題に先立って、菅首相が自政権の政策に反対する官僚に対して‘異動してもらう’と述べたため、同政権に対する独裁志向への懸念が強まっていました。こうした矢先にまたもや日本学術会議に対して首相が人事権を振るう構図となったため、同会議に保障されるべき独立性を侵害したとして、強い反発が起きたのです。おそらく、法的には首相による任免拒否は違法行為ではないのでしょうが、日本学術会議の側も、権力分立を認めない独裁体制下においては失われてしまう公的機関の独立性(自立性)や学問の自由等を問題としているのです。

 

以上に、両者の対立点を簡単に纏めてみましたが、この問題を考えるに当たっては、3つの側面に分けてみる必要があるように思えます。

 

  第一の側面は、政府と軍事研究との関係です。共産党が権力も富も独占する中国では、国民も企業も国家の目的や国家戦略に奉仕する義務を負わされています。たとえ民間の研究成果であったとしても軍事部門への転用は当然のことであり、積極的に研究者に対して先端的な軍事技術の開発や提供を求めているのです。もっとも、程度の差こそあれ、軍事技術の研究が禁じられている国は存在せず、この点、日本学術会議が示した方針は憲法第9条と同様に非現実的ですし、学問の自由を侵害しているとも言えます。仮に日本学術会議が科学の平和利用をポリシーとして貫くならば(民主的制度によって会員が選考されない同会議の人事システムにおいて、日本国の全研究者の‘総意’と言えるのかどうかは疑問…)、少なくとも軍民が一体化している中国とだけは協力関係を築くべきではなかったと言えましょう。そして、中国の軍事技術が先進国から貪欲に技術を吸収しつつ飛躍的に向上し、今や最先端のハイテク兵器で日本国の安全を脅かしている以上、日本国政府が、日本学術会議の方針に対して転換を求めるのも、理由のないことではありません(任命拒否の理由との関係は今のところ不明ですが…)。

 

  第二の側面は、人事権の在り方です。中国では、民主的に公職が選ばれるはずもなく、研究方針もトップの一声で決定され、反対する研究者は容赦なく粛清されます。この側面は、今般の日本国政府による新会員の任命拒絶のみならず、人治とも言うべき方法で会員が選定されている日本学術会議に対する批判点でもあります。

 

そして第三の側面は、学問の自由の如何です。中国にあって学問の自由が保障されているのかと申しますと、それは幻想です。共産主義国では、ソ連邦でも顕著に観察されたように、科学技術の研究は国家に従属しています。日本国政府も、近年、デジタル社会化に貢献する分野にのみ予算を重点的に配分したため(一種の社会改造計画では?)、他の学問領域を冷遇する結果となり、間接的ではあれ、学問の自由を損ねてしまいました。その一方で、日本国政府よりも同会議の方が、むしろ他の研究者から学問の自由を奪っていると指摘されるのも、その組織的な体質が、中国共産党と同様に統制志向が強いからなのでしょう。

 

このように問題を3つの側面に分けてみますと、少なくとも、第2と第3の側面に関しては、日本国政府も日本学術会議も、自らの内に巣食う‘中国的なるもの’を、それとは気付かぬふりをしながら、お互いに合わせ鏡のように批判し合っているように見えます。そして、両者とも、自らの主張に正当性があることを示すために、自己を自由や民主主義に立脚した立場に置いて相手方を批判しているのです。この結果、双方に自己矛盾が生じ、収拾のつかない状況に陥っているように思えるのです。

 

泥沼化しつつも、今般の一件は、今日の日本国が抱える問題を浮き彫りにした点において意義があったのかもしれません。中国の軍事的脅威を前にして、自衛隊の防衛力強化を目的とした軍事技術の研究の問題、並びに、中国への軍事協力の防止問題については、正面から議論する必要がありましょう。そして、現在、日本国のあらゆる組織に必要なことは、政治の世界であれ、学問の世界であれ、‘中国的なるもの’、即ち、共産主義、あるいは、全体主義的な悪弊や束縛を取り除くことであることだけは確かなのではないかと思うのです。


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平和から逃亡するノーベル平和賞

2020年10月11日 11時58分22秒 | 国際政治

 今年、2020年のノーベル賞は、国際連合世界食糧計画(WFP)に授与されることが決定されました。受賞の理由は、「飢餓克服への努力、紛争地域の平和のための貢献、そして飢餓を戦争や紛争の武器として使用することを防ぐための努力において原動力としての役割を果たしたことに対して」と説明されています。WFPの本来の活動目的は世界レベルでの飢餓の克服ですので、平和の実現そのものというよりも、飢餓を紛争要因の一つと見なすことで強引に受賞理由をこじつけている観があります。違和感がないわけではないのですが、歴代のノーベル平和賞の受賞者の顔ぶれを見しても、戦争の回避や和平の実現など、現実の政治や外交において誰もが平和の実現に貢献したと認め得るような受賞者は、数えるほどしかいない点に驚かされます。

 

 近年に至っては、持続可能な開発、貧困、地球の気候変動等の社会性の強い問題に取り組んできた政治家や活動家の受賞も目立ち、平和と直結する安全保障分野にあっても、受賞者は、オバマ前大統領や核兵器廃絶国際キャンペーンなど核兵器廃絶問題への片寄りも見られます。社会主義的な傾向が強いとも言えるのですが、その理由の一つは、平和賞に限っては、ノルウェー政府が授与主体であり、選考委員会の委員はノルウェー国会により指名されるからなのかもしれません。つまり、他の部門の賞よりも遥かに政治色が強く、ノルウェーの国内政治の影響を強く受けてしまうのです。

 

戦後のアメリカの政治家の受賞者例を見ましても、ジミー・カーター大統領、アル・ゴア副大統領、並びに、オバマ大統領の何れもが民主党に属しており、共和党の受賞者は、米中国交正常化を導いたヘンリー・キッシンジャー元国務長官の名が見えるのみです。圧倒的に民主党寄りであり、共和党のトランプ大統領がノーベル平和賞を狙うならば、キッシンジャー元国務長官のように対中融和政策に転じるしかないのではないかと疑うぐらいです。

 

そして、この極端とも言える政治的片寄りは、ますますノーベル平和賞が色褪せてしまう原因となっているように思えます。何故ならば、今日、国際社会における最大の脅威となっている中国に毅然と立ち向かっている政治家、活動家、そして、国際機関については、選考委員の目には全く入らないからです。2013年にあっては、南シナ海問題において中国に対して違法判決を下した常設仲裁裁判所にこそ、本来、同賞が授与されるべきでしたし、暴力国家化する中国に対して厳しい姿勢で臨むトランプ大統領やポンペオ国務長官、チェコの国会議長、香港の民主化リーダー、そして、チベット、ウイグル、内モンゴルにおいて中国に抵抗している方々の方が、余程、同賞に相応しいと言えましょう(もっとも、非暴力主義が評価されてか、ダライ・ラマ氏には、同氏が共産主義者であることからか、授与されている…)。日米同盟さえ、対中抑止力が評価されれば、受賞の対象となるかもしれません。自らの身の危険を顧みず、巨悪に挑む人々に対しては、ノーベル平和賞の選考委員会の態度は極めて冷淡なのです。この点、中国の民主化に命を捧げた劉暁波氏こそ、最初にして最後のノーベル平和賞の名に相応しい受賞者であったのかもしれません(歴代のノーベル平和賞受賞者にあって、非業の死を遂げたのは同氏のみであったかもしれない…)。

 

ノーベル平和賞は、その政治的な偏り故に、結局のところ、最大の平和への脅威に対しては無力なばかりか、むしろ、融和的でさえあります。今年のノーベル平和賞受賞者の候補には、香港の民主化運動家の名も挙がったそうですが、受賞を阻止するために中国から強力な圧力がかかったとも伝わります。選考委員会が既に‘侵略国’に屈しているようでは、ノーベル平和賞の云う‘平和’とは、‘虐待死の平和’の容認ともなりましょう。WFPであれば当たり障りがなく、中国を刺激することはないと政治的に判断したのでしょうが、ノーベル平和賞選考委員会が中国の威嚇へ屈服している、あるいは、左派繋がりの仲間内であることを示唆する結果ともなれば、人々は、今般の選考に国際社会に中国の脅威が迫っている前兆を敏感に感じ取るのではないでしょうか。


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‘何でもデジタル化’のリスク

2020年10月10日 12時58分34秒 | 日本政治

 行政手続きのデジタル化の掛け声のもと、昨日、上川陽子法相は、裁判のデジタル化に次いで婚姻・離婚届の提出手続きにまで言及するようになりました。押印廃止に触れた発言でしたが、現状でも、地方自治体が導入していないだけで、法律上はオンラインによる提出ができるそうです。しかしながら、本人の意思確認の手続きまでをもデジタル化してしまいますと、そのリスクは計り知れないように思えます。

 

近代以前にあっても、キリスト教の伝統的な結婚式では、牧師や司祭が花婿さんと花嫁さんの前に立ち、双方に自らの自発的な意思を神の前に誓わせる儀式を経なければ、婚姻は公式には成立しませんでした。今日にあっても、地方自治体の窓口に本人たちが直接に出向き、煩雑な手続きを要するのも、本人、並びに、両人の意思を確認する必要があるからとも言えましょう。一般的には、窓口の職員によってマイナンバーカードや運転免許証などの写真付きの証明書で本人が確認され、かつ、結婚届にも二人の証人の署名捺印を要するそうです。つまり、地方自治体の職員、並びに、二人の証人によって(未成年の場合には両親の同意書…)、婚姻届けが本人たちの意思によることが確定されるのです。

 

ところが、こうした手続きがオンライン化されれば、婚姻であれ、離婚であれ、どちらか一方の意思、あるいは、第三者の意思によって婚姻や離婚が、パソコンやスマートフォンの操作でいとも簡単に合法的に成立してしまいます。何故ならば、オンライン上の画面に必要事項を記入することは、個人情報さえ手に入れれば、本人自身でなくとも、本人に成りすました人物によって、誰にでもできるからです。ある人が、両者、あるいは、相手方の同意を得ずして婚姻届や離婚届を勝手に作成して提出しても、それを受け取った自治体はそれが‘偽文書’であることを見抜くことはできません。窓口を訪れた本人と証明書の顔写真とを見比べて同一人物であることを確認することはできませんし、ましてや、自発的意思を確かめることもできないのですから。

 

かくして、ある日突然、自身の全く知らぬ間に結婚、あるいは、離婚させられてしまう人が続出することが予測されます。また、財産目当てや国籍取得を目当てとしての偽装結婚等も多発することでしょう。この状況は、国民にとりましては恐怖以外の何ものでもありません。毎日のように自らの戸籍をチェックしないことには、安心できない時代が訪れるかもしれないのです。

 

こうした国民の懸念は、リアルタイムの顔認証制度といった先端的なITシステムを導入れば解決するのかもしれませんが、このためには、全国民が自らの顔情報を同システムに登録する必要がありましょう。しかしながら、顔認証システムの制度は100%とは言えない現実に加え、デジタル化を過度に推し進めますと、今日、ITを総動員して中国が敷いている徹底的な全国民監視体制に近づくように感じられ、この方向性にあっても国民の不安は高まります。

 

同報道については、法務省が「法務省が婚姻届などの押印廃止に伴って、そのオンライン化を検討している旨発言したものではない」と慌てて打ち消したものの、行政手続きのデジタル化の波は、あらゆる分野に及ぶ気配があります。デジタル化によって、確かに行政手続きは簡素化され、その処理もスピーディーとはなるために国民も恩恵を受けるのですが、国民の法的身分が不安定化し、犯罪リスクも高まるようでは、元も子もないように思えます。しかも、デジタル化された情報は一瞬にして消去されたり、改竄することもできますので、記録媒体としての脆弱性があります。むしろ、紙の書類の方が証拠力や機密保持において優っている場合もありますので、全面的なデジタル移行よりも、安全性を重視した調和的な導入を目指すべきように思えるのです。

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世界が共産化する兆候?-WTO事務局長選挙

2020年10月09日 11時45分01秒 | 国際政治

 目下、ブラジル出身のロベルト・アゼベト前事務局長の辞任を受けて空席となってきた同ポストを埋めるべく、WTOでは、事務局長選挙が行われています。こうした中、同選挙の最終選考にあって、候補者はナイジェリアのヌコジ・オコンジョイウェアラ元財務相、並びに、韓国の兪明希通商交渉本部長の女性候補2人に絞られることとなりました。近年、WHOのテドロス事務局長の事例を引くまでもなく、国際機関のトップが‘独裁化’する傾向も見られ、警戒心が高まっています。

 

WTOの主たる機能とは、通商ルール作り、並びに、同ルールに基づく紛争解決です。前者に関する最高意思決定機関は、GATT時代のラウンドの後継である加盟各国の閣僚をメンバーとする閣僚理事会ですし、後者については、一先ずは、中立・公平な立場にある紛争解決委員会が担当しますので、制度上は、事務局長による介入はあり得ないはずです。同分野における事務局長の主たる役割とは、強いて言えば裁判所の事務局長に当たり、裁判そのものに影響を与える立場にはないのですが、それでも、最終選考に残った二人の女性候補者を見る限り、政治機関と化す懸念は払しょくできないのです。

 

はじめに、経済学者でもあるナイジェリアのオコンジョイウェアラ元財務相は、世界銀行で専務理事を務めた経歴を持ちます。現在は「ワクチンと予防接種のための世界同盟」の理事長を務めているそうです。このポストが影響してか、「貧困国が新型コロナウイルスの治療薬やワクチンを利用できるようにするため、WTOが役割を果たすべき」とも主張しており、その目指すところは、WTOの本来の役割から逸脱しており、実際に、同氏の就任後にWTOがワクチン供給に関わるとすれば、それは、配分問題となるのですから‘管理貿易’を意味することとなりましょう。

 

また、韓国出身の事務総長でも、懸念が残ります。韓国では、三権分立の原則が本来の意味において定着しているわけではなく、徴用工訴訟に典型的に見られるように、政治色が強い判決がしばしば見られます。韓国出身の事務局長が誕生するとすれば、WTOへの提訴そのものが政治的なリスクとなる可能性も否定はできません。紛争解決機関とは中立・公平性が失われた途端に信頼性が崩壊し、機能不全に陥りますので、韓国出身の事務局長には戦々恐々とならざるを得ないのです。

 

このように、二人の最終候補者の何れにも難点があるのですが、WTO、否、国際機関の人選にはどこか不自然さがあり、予め決められた方向へと誘導されているように思えます。今般の人選でも、どちらが事務局長に就任したとしても女性、かつ、非白人です。まるで(1)女性であること、(2)非白人であることの2つが、隠れた資格要件であるかのようです。つまり、国際社会のレベルにおいてもアファーマティヴ・アクションが行われているのであり、‘マイノリティー’であることが絶対条件なのかもしれないのです。IMFを見ましても、現在の専務理事はブルガリアのクリスタリア・ゲオルギエヴァ氏であり、(2)の要件は満たさないまでも(1)の要件には適っています。

 

こうした現象から、国際機関の人事については、リベラル派が水面下で巧妙にコントロールしているとする疑いが浮上してきます。アフリカにあって、とりわけナイジェリアが重要視され、世界銀行からエマージング・マーケットと見なされているのも、同国が、アフリカ系アメリカ人の主たる出身地であり、アメリカ民主党との間にも様々な繋がりがあるからなのかもしれません。また、韓国の兪明希も、左派の文在寅政権の下で通商交渉本部長を務めていますので、リベラルな思想の持ち主なのでしょう。つまり、どちらを選んでも、WTOの事務局長ポストはリベラル派によって押さえられてしまうのです(しかも、二頭作戦であれば左右は関係なく、右派にあっても‘隠れリベラル’が多数潜伏…)。

 

WTOの事務局長選挙において‘二頭作戦’が仕掛けられているならば(どちらを選んでも不利益となる…)、もはや、WTOには、中立・公平な紛争解決機関としての役割は期待できなくなります。加盟各国は、どちらを選ぶのか、という無意味な二者択一に追いこまれるよりも、無節操なグローバリズムが曲がり角にある今日、WTOの枠組みから離れ、新たな国際通商体制の構築に踏み出すべきではないでしょうか。‘リベラル’には社会・共産主義思想も含まれますので、一連の動きの背後には、中国のみならず、世界の共産化(全体主義化)を狙う国際組織も潜んでいるのかもしれないのですから。


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‘中国の平和’は‘虐待死’の平和?

2020年10月08日 12時33分04秒 | 国際政治

 先日、父親が生後一か月の赤ちゃんを虐待死させた痛ましい事件が報じられておりました。幼子を死に至らせたのは、‘子供が泣き止まずに煩かったから’という、俄かには信じがたい動機からなのですが、この事件、世の中には、暴力よって黙らせようとする人が少数ながらも存在する現実を知らしめているようにも思えます。

 

 一般的には、子供が泣き止まない時には、真っ先に、‘あやす’という行為を思い浮かべるのではないでしょうか。怒っても、叩いても、子供が泣き止むはずもなく、大抵は、逆効果になるものだからです。大人の力で叩かれれば、子供は痛さに耐えかねてさらに声を大きく張り上げて泣き叫ぶことでしょう。虐待死をさせた父親は、逆効果となる行動をとっていますので、常識に照らせばその行動は理解に苦しむのですが、この時、ふと思い浮かんだのが、もしかしますと、この父親は、子供の命を奪うことで黙らせようとしたのではないか、という疑いです。泣くという行動は命あってのものですので、命を奪えば、泣き声も消えます。父親の望み通りに静寂が訪れる時、それは、幼子の尊い命が失われた時なのです。

 

 虐待で沈黙させようとする発想は、個人に限られたことではなく、国家にもあっても見出すことができるように思えます。例えば、中国は、今日、チベット人、ウイグル人、モンゴル人、そして香港の人々に対して虐待によって黙らせようとしています。今般、モンゴル自治区における漢人への同化政策が国際的な批判を浴びていますが、中国は、チベット人やウイグル人に対しても同様の弾圧を実行してきました。特定の民族を標的とした弾圧はジェノサイドとして国際法において犯罪行為として定められていますが、中国は、暴力と強権を以ってこれらの人々の民族性を抹殺しようとしているのです。中国が理想とする安定や平和とは、他者の自立性や固有性を徹底的に破壊し、声を上げないように封殺してしまう、‘虐待死の平和’なのです。中国の暴力を前にしては、人々は自らのアイデンティティーを主張し、抵抗の声を上げることさえもはやできなくなるのです。

 

そして、この発想は、しばしば自称‘平和主義者’の中にも見出すことができます。何故ならば、この種の‘平和主義者’の唱える‘平和’とは、暴力主義の国家の支配に屈することを意味するケースが少なくないからです。例えば、日本国の共産党や社会党などの左翼の人々は、‘平和主義者’を自称して、自国の軍事力については防衛力さえも否定し、平和の名の下で憲法第9条の堅持を訴えていますが、その一方で、‘資本主義国の核は悪で、共産主義国の核は善?’として中国の軍事力の強化、核による脅しを事実上容認しております。そのダブルスタンダードぶりが呆れられてきましたように、軍事大国として伸し上がった中国に対しては、口を噤んでいるのです。中国の軍事力によって全世界の諸国が虐待され、黙らされた状態こそ、すなわち、中国の暴力主義に異を唱えてきた諸民族・諸国が消滅した状態こそが、彼らの言うところの‘平和’なのでしょう。

 

今般、任命システムのみならず、自国の防衛力強化に関連した研究を禁止する一方で、尖閣諸島を狙う中国に軍事技術を提供する研究は容認するという背信的な行為によって議論を巻き起こしている日本学術会議の問題も、同質のダブルスタンダードが問われている問題とも言えましょう。

 

 古今東西を問わず、戦いに勝利した側が敗北した側を虐殺してしまう事例は、人類の歴史において枚挙に遑がありません。過去にあっては、今日の中国のような行動を是とする国家は珍しくはありませんでした。しかしながら、今日、こうした行為は人道に反する犯罪的な行為として国際法によって禁じられています。僅かであれ、人類は、それぞれの国家や民族の主体性が尊重され、各々の自由や権利が保障される国際秩序へと近づいてきたのですが、力のみを信じる中国は、こうした人類の努力を水泡に帰そうとしているのです。

 

 今日の平和とは、暴力主義国家による虐殺や侵略の上に築かれるものではないはずです。虐待と封殺を伴う平和の実現は、人類の死を意味するのではないでしょうか。


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菅政権は狂い咲きのグローバリスト内閣?

2020年10月07日 12時34分09秒 | 日本政治

昨日、10月6日付の日経新聞の一面には、菅新首相のインタヴュー記事が掲載されており、企業統治改革に関する同首相の見解が掲載されておりました。見出しには「管理職「女性、外国人を拡充」」とあり、政府としては、日本企業に対してさらなる女性や外国人の管理職登用を促したいようです。

 

 政府が主導の企業統治改革とは、政府による民間への介入ともなりかねないのですが、今日、グローバリズムは曲がり角に至っているように思えます。その理由の一つは、現状にあってさえ、とりわけ外国人に経営権を握られるようになると、日本国の国益や日本人の雇用、あるいは、日本国の慣習などは、一切、無視されることに気が付き始めているからです。

 

ソフトバンクグループを率いる孫正義氏は朝鮮半島の出身者ですが、携帯通信事業で莫大な利益を上げながら日本国に対する納税額は僅かであり、割高な通信料金から得た資金は、海外企業の買収や出資など、国外における事業拡大に投じられています。こうした事例は同グループに限ったことではなく、先進国で上げた収益を途上国での事業拡大に振り向けるのは、グローバル企業の典型的な戦略です。この戦略に従えば、グローバル企業に富が集中する一方で、先進国は国家も一般の国民も貧しくならざるを得ないのです。

 

また、日産の会長であったカルロス・ゴーン被告の逮捕劇に象徴されるように、外国人経営者は、いわば、‘支配者’、あるいは、‘搾取者’として来日するケースもあります。同氏が背任罪に問われたように、日本企業は、言葉が悪くて申し訳ありませんが‘食い物’にされてしまうケースものないわけではありません。

 

また、武田製薬では、2014年にクリストフ・ウェバー社長の下でアイルランドの製薬大手のシャイアー社を過去最高とされる凡そ6兆円で買収し、一気に世界製薬トップ10に入るグローバル企業として躍り出ることとなりました。グローバル化に成功する一方で、日本人に長らく親しまれてきた一般市販薬の事業(武田コンシューマーヘルスケア)については、アメリカの投資会社ブラックストーン・グループへの売却が予定されています。こうした経営決断も、グローバル企業にとりましては当然すぎるほどに合理的な判断であり、全世界を視野に入れての事業展開からすれば、日本国は、本社が所在する拠点に過ぎないのです。

 

因みに、武田コンシューマーヘルスケアの売却予定先であるブラックストーン・グループについては、2007年6月に、中国の政府系投資ファンドである中国投資有限責任公司が30億ドルで株式約9.37%を取得しています。同グループの創設者であり、かつ、CEOでもあるスティーブ・シュワルツマンは‘中国の清華大学に3億ドルを寄付して経済管理学院顧問委員会に名を連ねて自らの名のついたカレッジも設立している親中家’とされていますので、将来的には、武田コンシューマーヘルスケアは、同グループを介して中国の製薬大手の手に渡る可能性も否定はできません。間接的であれ、直接的であれ、家電分野で起きた現象、即ち、資金力に優る中国企業による日本企業の吸収が、今や、全ての事業分野に広がりつつあるのです。

 

菅首相の企業統治改革の新方針は、海外からの投資を増やし、企業の競争力を高めることが狙いとされていますが、‘投資’とは、日本企業の統治権が海外に移ることを意味しかねず、実際に、上述した中国投資有限責任公司は、日本企業に対して‘投資’しているそうです。しばしば、経団連等の中国寄りの経営方針が‘自滅行為’、あるいは、‘より手厳しく売国行為’として批判を受けていますが、日本の経済界の親中姿勢は、中国による日本企業への‘投資’が原因しているのかもしれないのです。

 

株主としてのみならず、今後は、経営に参画する外国人も増加するとなりますと、日本企業は、そして、日本国民の雇用状況は、一体、どうなるのでしょうか(事実上、中国を含む外国勢力に合法的に乗っ取られる?)。事業を世界規模に最も収益が高まるように効率的に展開したいグローバル企業は、当然に、自国への拘りはありませんので、拠点を海外に移すことも躊躇しないでしょうし、幹部であれ、一般社員であれ、積極的に外国人を登用・採用することでしょう。今日、アメリカ等ではグローバリズムに歯止めがかかりつつありますが、菅首相は、ブレーキを踏むべき時に、アクセルを踏んでいるように思えるのです。


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危うすぎる日本農業の輸出志向への転換

2020年10月06日 12時22分57秒 | 日本政治

 報道によりますと、菅政権は、日本国の農政について「農産物輸出5兆円目標」を掲げています。日本産の農産物の輸出額を5年後には2兆円、さらに10年後には5兆円に伸ばそうとする政策なのですが、この政策、食糧が国民の命や生活と直結するだけに、あまりにも危険すぎるのではないかと思うのです。

 

 第一に挙げられる問題点は、目標数字の非現実性です。日本国の総GDPに占める農業の比率は凡そ0.9%程であり、額で見ますと凡そ5兆円ほどです。すなわち、輸出目標の5兆円とは、今日の日本国の農業分野のGDPと匹敵しますので、単純に計算してみれば、現在、国民向けに生産されている農産物の大半を輸出向けに転換しない限り、目標は達成できないこととなります。あるいは、休耕地を全て輸出向け作付け地とする、もしくは、新たに輸出向けの‘プランテーション’を全国各地に建設するという方法もありましょうが、僅か10年の間に同目標を強引に達成しようとすれば、日本の農業の大転換、否、大破壊を要することでしょう。

 

第2のリスクは、日本国民の食糧事情が悪化する可能性です。おそらく、輸出向け農産物として期待されているのは、国際競争力を有する品質の高い高級品なのでしょう。5兆円相当のハイグレードな農産物を生産するとなりますと、上述したように、農地の輸出向け作物への転換により、高級品どころか、日本の家庭の食卓からこれらの国産農産物が消えることにもなりかねません。代わって、日本国民の食生活が安価な輸入品に頼ることになりますと、さらに食糧自給率を下げることとなりましょう(現在の日本国の食糧自給率は凡そ38%程度らしい…)。しかも、今日、洪水や蝗害等による全世界的な食糧不足も懸念されており、輸出向けが優先されますと、食糧自給率も低い状況下にあって、日本国民が飢餓に直面する可能性もないわけではありません。コロナ禍にあっても、日本製の医療機器が、契約により優先的に海外に輸出されていたそうです。農産物の輸出とは、通常、国内消費分を越えて余剰が生じる場合にのみ行われるものですので、食糧自給率が先進国最低でありながら輸出に舵を切るのは、狂気の沙汰としか思えないのです。

 

 第3のリスクは、主要な輸出先国として中国を想定している点です。日本国政府は、将来的に「中国製造2025」が実現すると見越し、今から貿易赤字の是正策として農産物輸出を計画しているのかもしれません。つまり、グローバリズムを追求した結果、日本国の産業は空洞化し、中国から工業製品を輸入するために農産物輸出に頼らざるを得ない状況に至るかもしれないのです。言い換えますと、中国が旗振り役となるグローバリズムの果てに成立した国際分業は、日本国に、中国富裕層向けの食糧生産の役割を割り振ることとなるのです(5兆円は対中貿易赤字予測額から算出?)。あるいは、第二次世界大戦後にあって、連合国がドイツの復興計画としてモーゲンゾー・プランを策定し、同国の軍事力を削ぐために農業国化を図ろうとしたように(冷戦の激化で方向転換…)、中国は、既に日本国を農業国として位置づけているのかもしれません。

 

さらに第4に問題点として挙げるべきは、農家への補助金です。現状にあって、多くの農家は政府から様々な助成金の給付を受けています。その多くは、政府の政策方針に沿って農業経営を行う農家に支給されるのですが、今後は、農地や農産物を輸出向けに転換した農家に対して手厚い補助金が給付されるかもしれません。輸出向けの方が高値で販売できますので、日本国の農家の収入は増えるのでしょうが(もっとも、高収入となった時点で補助金は不要になるかもしれない…)、一般の国民は、国産農産物の価格上昇にも見舞われる上に、当面の間は、輸出型農業への転換に要する費用まで負わされることとなりましょう。

 

農産物の輸出目標額が5年ごとに設定されているところにも、どこか、共産主義国の「五か年計画」が思い起こされ、日本国も、国民には見えないところで中国、あるいは、その背後に潜む国際的なグローバリスト集団が描いた‘計画経済’に組み込まれてしまっているのかもしれません。杞憂であればよいのですが、新政権が打ち出した輸出志向の農政は、国民に将来的な食料不安、さらには、日本国の未来に対する暗い予感を与えるのみではないかと懸念するのです。


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どちらもおかしい日本学術会議問題

2020年10月05日 14時32分06秒 | 日本政治

 日本学術会議をめぐっては、菅首相が6名の新会員候補者の任命を見送ったことから、激しい非難合戦が起きています。日本学術会議とは、「科学が文化国家の基礎であるという確信の下、行政、産業及び国民生活に科学を反映、浸透させることを目的」に設立された日本国政府の公的機関です。泥仕合のような状況を呈しているのですが、この問題、どちらもおかしいように思えるのです。

 

任命拒否を支持する側の不支持派に対する批判点は、日本学術会議の体質にあります。日本学術会議の主たる役割は、(1)政府に対する政策提言、(2)科学者間のネットワークの構築、(3)国際的な活動、そして、(4)科学についての世論啓発の4つなそうです。ところが、同会議の活動を見ますと、既に1950年には「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」を(この時期は、未だGHQによる占領期にある…)、1967年には「軍事目的のための科学研究を行なわない声明」を出しており、これらの方針は、2017年にも自衛隊への研究協力拒否として継承されています。

 

国内の全科学者を代表しての‘決意表明’の形をとっていますので、これらの声明は、先に挙げた役割の何れにも当て嵌まらないように思えます。仮に、政府への政策提言機関であるとの自覚のもとに、同会議が、同声明を「政府に対する提言」として出したのであるならば、日本学術会議は、自国の防衛に必要となる研究を日本国の全科学者に対して禁じるよう政府に求め、国家の自己否定とも言うべき非現実的、かつ、利敵行為的な政策を提言したこととなりましょう。

 

さらに、ネット上の情報によりますと、日本学術会議は、中国の「千人計画」には協力している上に(因みに、アメリカでは、同計画に参加した著名なウイルス研究者が逮捕されている…)、レーザー研究の分野など、軍事転用可能な技術における中国との共同研究についてはお咎めなしのようです。自衛隊への協力を平和を理由に拒絶する一方で、軍事的脅威である中国に対する協力だけは惜しまないというのでは(‘国際的な活動’?)、日本国民の大半がその背信的なダブルスタンダードに唖然とすることでしょう(実際に、ネット上では、この情報に騒然となっている…)。

 

しかも、日本学術会議の会員は、87万人ともされる研究者の代表とも言い難く、会員の推薦による閉鎖的な選考によって新たな会員が選ばれていますので、こうした非民主的な側面を考え合わせますと、首相による任命拒否を支持する人々の批判には理がありそうです。日本学術学会は、政府機関としての本来の目的を離れ、特定のイデオロギーに染まった一部の学者による政治的な工作活動の場、日本国の学界を縛る場となってしまったのですから。

 

その一方で、首相による任命拒否を批判する側の主たる根拠は、「学問の自由」に対してというよりも(学術会員に選ばれなくとも、自由な研究はできる…)、日本学術学会に保障されている人事に対する独立性の侵害のようです。同会議から上がってきた推薦者を首相が任命するという手続きは形式的なものに過ぎず、拒絶する権限は首相にはないというのです(支持派は‘ある’と主張…)。この批判点も、日本学術会議が、上述したように政府に対する政策提言機関であるならば、科学者としての客観的、かつ、独立した立場が保障されている方が望ましいわけですので、単なる政府の‘翼賛機関’、あるいは、‘御用学者団’への変質を危惧する声には一理はあります。また、官僚人事においても指摘されていたように、人事権の首相への集中は、中国と同様の独裁体制へと向かうステップともなりかねません。

 

以上に述べましたように、日本学術会議側も政府側も、共に批判を受けるだけの理由があります。‘どっちもどっち’なのですが、ここで考えるべきは、まずは、政府と研究者との関係の在り方です。同会議には、年間10億円もの予算が付けられているそうですが、これは、4つの役割のうち、とりわけ公的な機能として政策提言機能があるからなのでしょう。他の役割については、必ずしも同会議が担う必要はないようにも思えますので、公的な役割を期待するならば、研究者達の要望や意見を政府に伝える伝達機関、科学技術よって解決可能な問題についての提言機関、並びに、法案や政策案に対して専門家の立場から助言や問題点を指摘する諮問機関等とすべきかもしれません。つまり、上述したようなイデオロギーに染まった‘政治的声明’を発するような奇妙な機関ではなく、純粋に、教育や研究の現場にある科学者や研究者の声を伝え、専門家ならではの知識や知恵を提供すると共に、科学的な見地から法案、あるいは、政策の評価を行う機関とするのです。

 

このためには、日本学術会議からイデオロギー色を払拭すべきですし、研究者の幅広い声を政治に届けるためには、閉鎖的ではなく、より開かれた組織へと改変する必要もありましょう(会員の選定をめぐっては、選挙などの民主的制度の構築が必要なのでは…)。今日、政府サイドから上からの‘選択と集中’が進められたため、すそ野の広い研究が強みであったはずの日本国の科学技術は、その土台を切り崩されております。政府が現場の声を聴いていれば、こうした事態は防ぐことができたことでしょう。また、先端技術分野でさえ、恒常的な研究費不足に苛まされているのが現状です。意見の収集や集約のためにデジタル技術も導入すれば、より効率的に政府と研究者との間の橋渡しができるかもしれません。また、諮問機関としての役割についても、メンバーを固定するよりも、政策分野に精通した専門家を、その都度、客観的な基準に基づいて選んだ方が、法案や政策の立案や改善には役立つことでしょう。

 

日本国の研究者の能力を法案や政策に反映させることができれば、日本国の政治レベルのアップに繋がるかもしれません。日本学術会議の問題は、非難合戦に終始するよりも、当会議の改革をも含め、政府と研究者との関係を抜本的に見直し、新たなシステムを構築に向けての機会とすべきではないかと思うのです。


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人種・民族差別問題を考える―3つの要求

2020年10月04日 13時21分32秒 | その他

アメリカにあっては人種対立の激化が懸念されているように、人種・民族差別問題は、社会を引き裂きかねない重大な対立要因です。この問題、あまりに深刻なために終着点が見えないのですが、まずは、基本にかえる、あるいは、別の切り口から考察してみることも必要なように思えます。そこで、まずは、人種・民族に関する3つの基本的な考え方があることを確認すべきではないかと思うのです。

 

 人間の理性や社会通念に照らした3つの基本的な要求とは、(1)マジョリティー側における自己のコミュニティーの維持要求、(2)マジョリティー、並びに、マイノリティー側の融合要求、(3)マイノリティー側の自己のコミュニティー維持要求、の三者です。現実にあってこれらの三者は混在していますので、何らかの解決策を探るに当たっては、これら三者の権利の正当性を慎重に検討すべきですし、基本的権利と同様に、基本的要求として、これらの内の一つが他の二つの考え方を、一方的に排除してはならないはずでもあります。

 

まず、(1)の考え方は、保守層の基本姿勢です。国民国家体系や民族自決主義にあって一民族一国家の原則に立脚する国家の場合、マジョリティーの自己コミュニティー維持要求は、歴史、伝統的な文化、社会的慣習等の保持と凡そ同義となります。異人種・異民族間の融合や移民の増加には否定的です(もっとも、自らがメンバーとして認め、同化する場合には認める…)。また、‘古き良き時代’として過去を郷愁し、先祖から受け継がれてきた社会の在り方や生活様式を肯定的に評価するほど、保守層は厚くなるのです。一先ずは多数派となりますので、多数決を原則とする民主主義国家では論理的には政治的決定力を有するはずなのですが、現実には、以下の現象の発生により、自己コミュニティー維持要求は蔑ろにされがちです。

 

(2)の要求は、人類平等性を謳うコスモポリタン的な思想に基づくものであり、全ての人種・民族は融合すべきとするものです。今日のグローバリズムにも通じ、コスモポリタニズムがアレキサンダー大王の大帝国から誕生したように、帝国主義とも高い親和性が認められます。理想通りに完全なる融合を目指すならば、既存の言語、慣習、規範、宗教などを全て消し去り、共通のものを新たに創るか、もしくは、一つを選らばなければならなくなるのですが、特定の人種や民族に対する法的な劣位待遇はおろか、人種や民族の違いによる文化・社会的な差異であっても、(2)の信奉者の主観的な視点からは‘絶対悪’と見なされる傾向にあります。グローバリスト、リベラルとも総称される社会・共産主義者、あるいは、普遍宗教の信者等がこの立場にあり、自らがマイノリティーに属していなくとも(そもそも、属性なるものを否定している…)、人種・民族差別反対を最も熱心に訴え、実際に、異人種・異民族間の婚姻や養子縁組等にも積極的な人々です。この考え方では、上述した既存の社会や文化の存続を許されず、(1)と(2)の考え方は両立しません。

 

そして、(3)の要求は、マイノリティーの側が、マジョリティーの中にあって自らのコミュニティーの維持を望むというものです。この考え方は、多数派か少数派かの違いはあれ、(1)の立場と共通しています。(3)もまた、保守思想の一種なのです。もっとも、マジョリティーが古来の定住者であるのか、新来の移民であるのかによって権利保護のレベルに違いがあり、前者のケースでは、少数民族の保護の観点から同要求が受け入れられる一方で、後者の場合には、マジョリティーとの同化を選択するのか、あるいは、コミュニティーの維持を要求するのか、という問題が生じます。何れにしても、(3)の考え方は、マイノリティー重視の姿勢においては(2)と共通しながらも、それぞれの人種や民族に対して固有の空間を認め、棲み分けを主張するという意味においては(1)の要求とは両立するのです。

 

以上に述べたように、人種・民族問題に対する人々の考え方の違いを3つに分けてみましたが、今日の政治の世界を見ますと、何故か、少数派であるはずの(2)の要求が‘絶対化’されているように見えます。その要因の一つは、他の要求の一切跳ねのけてしまう程に、人種・民族差別が‘絶対悪’として見なされているからなのかもしれません。このため、過去から受け継がれてきた自らのアイデンティティーの拠り所を大切にしたい、あるいは、善きコミュニティーを保ちたいという、(1)のような素朴な感情を持つ普通の人々であっても、差別主義者のレッテルが張られ、糾弾されるべき‘悪人’に仕立て上げられてしまうのです。

 

国際社会が基本的には一民族一国家を原則としている以上、保守層の要求もまた正当なる権利なはずです(独立国家を保有する正当なる権利…)。これを抹殺する思想こそ、多様性の尊重や寛容の薦めといったスローガンとは裏腹に、他者に自らの意思を一方的に押し付けるという意味で自己中心的で不寛容、かつ、排他的な思想とも言えましょう。否、(1)の考え方を持つ人々の正当なる権利を不当に侵害しているのかもしれません。このように考えますと、‘人種・民族差別’を武器とした融合方式の強要よりも、お互いの違いを相互に認め合う棲み分け方式の方がより多くの人々が納得する解決方法のようにも思えます。今日の国際秩序である国民国家体系とは棲み分け方式ですし、少なくとも、多数派となる(1)、並びに、少数派ではあっても(3)の人々の要求は一先ず満たされることとなりましょう。

 

それでは、(2)の人々の要求は完全に無視されるのでしょうか。上述したように(2)の考え方は今日全世界レベルで猛威を振るっており、各国とも都市の一部は、まさしくコスモポリタンな世界が出現しています。都市の一角を(2)の区域として残すという方法もありましょうし、あるいは、ITの発展により、(2)の世界は、特定の国や土地から遊離し、デジタル空間において実現するかもしれません(もっとも、混沌とした雑多な世界、あるいは、完全に融合されたモノトーンな世界に馴染める人は極めて少数かもしれない…)。

 

こうした解決方法であれば、3者とも妥協できるようにも思えるのですが、いかがでしょうか。もっとも、‘人種・民族差別反対’を掲げて言論封鎖を試みようとする(2)の人々の圧力により、棲み分け方式の提案や国民的な議論さえままならない今日の政治の現状こそ、危惧すべきかもしれません。いつの間にか、人種・民族差別を口実とした言論監視社会、あるいは、全てが‘ごちゃまぜ’のカオスの世界、バベルの世界に放り込まれてしまうかもしれないのですから。


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杉田発言と世耕発言―差別問題は複雑

2020年10月03日 11時17分55秒 | 日本政治

杉田水脈議員による発言が波紋を広げる中、同発言に対し、記者会見の席で自民党の世耕弘成参院幹事長が「言語道断だ」と述べたと報じられています。「今回が最後だ。次にやったら参院として厳しく物を申し上げなければならない」とも発言し、言わば、杉田議員に対して‘最後通牒’を突き付けた形となったのですが、同発言も、問題含みのように思えます。

 

 第一の問題点は、世耕参院幹事長は、決して許されまじき発言として杉田発言を糾弾するならば、国民が納得すべく、同発言の経緯について詳細な説明を加えるべきであったという点です。杉田発言については前後関係が不明なために、国民の多くは、辞任要求の声が上がるほどの女性差別的であったのか、判断ができない状況にあります。一般的な判断力からしますと、「女性はいくらでもうそをつけますから」という切り取られた一言を以って、厳しい制裁を受ける程の失言であると断定するのは凡そ不可能であるからです。国会議員に対する制裁を示唆する以上、同参院幹事長は、同発言の全文を公開し、疑いの余地なき女性差別発言であったことを証明する必要があったように思えます。

 

 第二の問題点は、同参院幹事長が、言論統制、あるいは、言論封殺を容認している点です。議会制民主主義とは自由な政治討論の上に成り立つ制度ですので、政治家の発言の自由は、とりわけ尊重されています。日本国の憲法第51条が、国会議員の議院内での演説や討論については院外でその責任を問われないと定めるのも、政治家には自由な政治的発言を保障する必要があるからです。杉田議員の発言は自民党内でのものですので、憲法によって護られているわけではないのですが、少なくとも政治とは、言論に制約を課すよりも、言論の自由こそ徹底すべき領域です。政治家の失言を攻撃材料とする手法はしばしばマスメディアが好んで用いてきましたが、そうであるからこそ、政治家は、むしろ、政策議論の場における言論の自由を護る立場にあるとも言えましょう。政治家の発言の是非については、後に国民が判断するのですから(事前に封じる必要はないのでは…)、この点に鑑みますと、世耕参院幹事長の発言は、自己呪縛のようにも聞こえるのです。

 

 第三に問題となる点は、世耕参院幹事長の語調の強さと威嚇的な態度です。‘最後通牒的’とも申しましたが、あたかも上司が部下に対して左遷や解雇を示唆し、口を噤むように脅すような口調なのです。そして、仮に杉田議員が女性ではなかったならば、かくも強圧的な言い方では批判をしなかったのではないか、とする疑いも生じてくるのです。ネット上でも、杉田発言を糾弾する意見には、その文体からして男性が少なくないように思えます。つまり、女性差別をめぐって男性が女性を苛めるという(これぞ女性差別?)、奇妙な構図も出現しているのです。むしろ女性の多くは、自己の利益のために嘘を吐く女性も存在することを知っていますので(想像力を働かせれば、冤罪関連の文脈での発言であることは容易に推測できる…)それ程までには強い反発や違和感を覚えなかったのではないでしょうか。

 

 杉田発言の一件は、政治家の言論の自由の問題も絡んでおりますので、差別批判が言論統制を容認してしまうリスクもあります。世耕参院幹事長の発言は、同リスクを顕在化すると共に、差別問題というものが、様々な思惑が渦巻き、かつ、単純には割り切れない‘差別する側’と‘される側’との相対的な関係性をも明るみにしたのではないかと思うのです。


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女性差別発言批判は政治運動?

2020年10月02日 11時23分53秒 | 国際政治

 自民党の杉田水脈議員は、女性を蔑視した差別的な発言を行ったとして、目下、‘炎上’という事態に至っているそうです。署名者10万人を集める議員辞職要求にまで発展したのですから、相当に酷い言葉で罵ったのかと思いきや、「女性はいくらでも嘘をつけますから」とする解釈の幅が広い発言であったようです。この言葉を以って女性差別と決めつけるのは難しく、むしろ、糾弾する側の不自然さが目立ってしまうのです。

 

 その理由は、第1に、同発言は、理由として述べられているからです(同発言は単独では完結しない…)。つまり、同発言は、具体的な事柄について対話をしている中で、何らかの理由説明として語られているのです。推測に過ぎませんが、おそらく、それは、男性側が被害者となる冤罪事件であったのでしょう。杉田議員は、女性の側が被害者を装ったのではないか、という意味で、「女性はいくらでも嘘をつけますから」と発言したのであれば、この言葉は、女性蔑視とは全く関係がなく、単に同事件に対する推理を述べたに過ぎないこととなります。実際に、女性側の嘘による痴漢冤罪も多発しており、今日では社会問題化していますので、前後の文脈を切り取った発言を以って差別と断定するのは、むしろ、主観による一方的な言論封鎖となる恐れもありましょう。

 

 第2に、最大の嘘が‘私は嘘をついたことはない’という嘘であるように、他者を慮ってのホワイトライであれ、人は、誰もが嘘を吐くものです。「男性はいくらでも嘘をつけますから」とも言えるのであり、「女性はいくらでも嘘をつけますから」という発言は、文字通りに読めば、事実を述べたに過ぎないのです。男女を比較し、「男性は誰もが常に正直であって、女性は誰もが常に嘘吐きである」と断言しているわけでもないのです。それにも拘わらず、主観的な解釈に基づいて差別発言と決めつけ、かつ、かくも激しい反発が起きているとしますと、やはり、別の意図を想定せざるを得ません。

 

 第3に指摘し得ることは、女性差別を糾弾したいのならば、声高に訴えるべき、人道に反するより深刻な問題があるはずです(虐待、DV、人身売買、誘拐、女性の商品化…)。解釈の幅が広い杉田議員の発言に飛びついて、揚げ足取りのように批判するよりも、真に女性を思っての行動であるならば、批判すべき対象は他にも多々あるはずです。

 

第4点の理由は、差別反対原理主義に陥ると、あらゆる側面において混乱が生じてしまうことです。極端な事例では、仮に、女性差別反対を徹底しますと、『旧約聖書』の載る神によってイヴはアダムのあばら骨から造られたとする記述をめぐっても、解釈によっては、差別的と捉えることもできますので、削除を要求しなければならなくなります(もっとも、解釈によってはまったく差別的表現ではない…)。女性差別と捉えてしまいますと、同書を聖典としているユダヤ教徒、キリスト教徒、そして、イスラム教徒も困惑することでしょう(女性信者がいなくなる?)。また、カール・マルクスも、その著書において女性の共有を提唱していますので、共産主義者の方が、よほど女性蔑視の差別主義者と言えましょう(フェミニストが共産主義から離脱?)。

 

 以上に不自然な点を挙げてみましたが、今般の女性差別発言の一件は、やはり、政治運動の一環なのかもしれません。10万人の署名がありながら、ネット上の意見を読んでみましても、同発言を、議員辞職に処すべき許しがたい女性差別として憤慨している一般の人は少ないようです(組織的な投稿は見られる…)。また、批判者は、女性よりも、何故か、男性の方が多いようにも見受けられます。組織的な運動であったとしますと、同発言を、何としても女性差別として糾弾したい側には特別な動機というものがあるはずです。

 

そして、この動機として思いつくのは、冤罪に関連するとすれば、証言が疑問視されている慰安婦問題(ドイツでも新たに慰安婦像が設置…)や全世界的に展開されているme too運動などであり(伊藤詩織氏の擁護?)、リベラル派の国際組織が背後に控えているのかもしれません。あるいは、女性天皇や女系天皇への布石として、国内にあって女性差別反対世論を誘導しようとしたとも考えられます。何れにしましても、特定の目的を有する政治運動である可能性は否定できず、国民は、政界の動きをもよく観察しながら、日本国の内外において何が起きようとしているのか、慎重に見極めてゆくべきではないかと思うのです。


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