来年1月22日に発効を確実とした核兵器禁止条約を推進したICANのベアトリス・フィン事務局長は、日本国の不参加にいたく落胆していると報じられています。唯一の被爆国でありながら、同条約に背を向ける日本国は、おそらく、同条約発効に尽力してきた同局長にとりましては、一種の‘裏切者’のようにも映るのかもしれません。日本国政府が、‘核兵器を合法のままにしておくことは、再び同じようなことが起こるのを許しているに等しい’として、憤懣やるかたない口調で批判しています。
しかしながら、日本国は、人類史上、最初にして唯一の被爆国であるからこそ、核兵器禁止条約に対して懐疑的なのではないでしょうか。何故ならば、日本国は、核兵器を保有していたから原子爆弾を投下されたのではなく、保有していなかったから被爆国となったからです(すなわち、核兵器保有による核抑止力を持っていなかった)。第二次世界大戦末期には、連合国のアメリカ、イギリス、ソ連邦のみならず、枢軸国側にあっても日本国やドイツもまた核兵器の開発競争に鎬を削っていました。当時の指導者たちは、最初に原子爆弾を開発した国が圧倒的な優位性を手にし得ることが分かっていたからこそ、先を争うようにして原発の開発を推進していたのです。仮に、日本国が核兵器開発に成功していたならば、あるいは、アメリカも、核兵器の使用を思い留まっていたかもしれません(もっとも、当時、日本国は制空権を奪われていたので、たとえ保有していたとしましても使用はできなかったことでしょう…)。
また、日本国憲法第9条をめぐる解釈問題と自衛隊設立の経緯も、核兵器禁止条約に対する日本国の消極的な姿勢を説明します。戦争や軍隊の放棄と核兵器の廃絶の基本的な思想傾向は共通しており、両者とも、一部の国であれ軍事力や核兵器を放棄すれば、世界平和が自ずと訪れるとの堅い信念を土台としています。いわば、性善説に立脚しているのですが、日本国の場合には、憲法制定後、即、厳しい現実に直面することとなりました。米ソ冷戦構造にあってソ連邦の核の脅威に晒されると共に、1950年にあって朝鮮半島では冷戦が熱戦と化し、日本国は自衛隊を発足させると共に、早晩、同盟国であるアメリカの核の傘を必要としたからです。理想と現実との乖離を経験した日本人のとりましては、核兵器禁止条約は、今日の国際レベルにあって憲法第9条問題が再現されたデジャヴのようにも感じられるのです。
このように、日本国は、決して理想通りには進まない現実を目の当たりにしてきましたので、核兵器の禁止、しかも、一部の諸国による核兵器の廃絶によって核兵器の使用が抑止されるとするICANの主張には一歩引いてしまうのです。こうした日本国の否定的な態度は、性善説を信奉するICANにとしましては、‘悪’に譲歩しているように見えて許しがたいのでしょう。
しかしながら、ICANの活動をめぐっては、人類の理想を追求しているように見えながら、その実、否むしろ、中国、ロシア、北朝鮮といった無法国家を含む核保有国を利すために、核兵器禁止を訴えているのではないかとする疑念を指摘することができます。何故ならば、核保有国が同条約に加盟するつもりがない以上、一部の諸国による核兵器の放棄は、北朝鮮などを含む核保有国の優位性を固定化してしまうからです。
仮に、将来にあって、中国や北朝鮮が核兵器を以って他国を威嚇したり、実際に使用した場合、ICANは、加盟国に対して責任をとることはできるのでしょうか。たとえ善意であったとしても、核保有国から威嚇されたり、核攻撃によって甚大な被害が発生してしまった場合、取り切れない責任もあるはずです。意図せずとも騙したことにもなりかねず、むしろ、リスクを隠したまま核禁止条約への加盟を呼びかけるICANの姿は、どこか無責任な偽善者のように見えるのです(論理的な結論でも‘偽善’となるのでは…)。同条約が偽善では無いとする証明なきままで、同条約へ参加することは、あまりにも危険性が高すぎます。
ICANは、こうした懸念や疑惑を払拭するために、先ずは、自らが偽善者ではないことを、国際社会を前に証明する必要があるのではないでしょうか。それは、言葉ではなく、行動において、実際に最低限、北朝鮮やイランの核開発を止めされることではないでしょうか。本記事をここまで読みまして、戦略思考の実態や善の悪用を前提として語っており、崇高な理想や無垢な善意をも疑う捻くれた意地悪さを感じ取られる方もおられることでしょうが(不快な思いをされた方がおられましたらば、申し訳ありません…)、偽善よりは偽悪の方がまだ‘まし’なのではないかと思うのです。