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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘デジタル化+脱ハンコ’が問うセキュリティー問題

2020年10月24日 12時48分38秒 | 日本政治

 菅政権の成立により、社会一般のみならず、行政手続きの脱ハンコ化が進められています。どちらかと申しますと、賛成意見方が多いようにも見受けられますが、脱ハンコには、一つ、盲点があるように思えます。

 

 脱ハンコ賛成派の人々の主たる根拠は、印鑑を押すという行為の煩雑さにあるようです。サインであれば、ペンなどの筆記用具さえあれば、事後的に確認できる形で、誰でも何処でも自らの合意意思を簡単に表示できます。サインの場合には、自己を証明するための特定の道具は必要なく、自らの筆跡が自己証明となるのです。一方、印鑑の場合には、朱肉を要するに加えて、まずはそれを自己証明の道具として携帯している必要があります。言い換えますと、自己証明は、印鑑という道具に全面的に依存しており、重要な手続きを行うに際しては、うっかり印鑑を忘れますと、自宅にとりに帰らなければならなくなるのです。

 

 サインは、その人自身の筆跡にアイデンティティーを認め、個体と証明手段の不可分の一致という面においては、より高い証明力と安全性を有しています。個体と証明手段が分離するハンコの場合には、別人であっても印鑑さえ所持していれば、本人に成りすますこともできるからです。サインの場合でも、筆跡鑑定を要するような‘偽造サイン’による事件が発生しますが、それでも、印鑑と比較すれば被害を受ける危険性は低いと言えましょう。

 

その一方で、唯一無二の手彫りの実印等であれば、生涯を通して変化し得る曖昧さがあり(老化や麻痺による筆跡の変化)、また、筆跡の模倣による偽造もありえるサインよりも、遥かに確実性があります。また、押印手続きを日本国の伝統として捉えますと、印鑑を押すのは一種の儀式であり、伝統や日本国の固有性を尊重する立場からすれば、その廃止は歴史的文化の喪失をも意味します。この点からしますと、脱ハンコ反対派の意見にも一理があります。加えて、コロナ禍にあっては、宅配便の受け取り等の簡易な受け取り確認にあっては、サインよりも瞬時に完了する印鑑の方が、接触時間が短く、感染防止対策としてのメリットもありましょう。

 

 以上に、サインと印鑑との長短を比較してきましたが、上記の比較は、従来型の社会を前提としたものです。ところが、今日、デジタル化が進みますと、サインと印鑑との選択には、別の問題が生じるように思えます。何故ならば、サインにあっても、個体と証明手段が分離してしまうからです。デジタル署名では、指定されたペーパーにペンを用いて自らの手でサインするわけではありませんし(サインには、受動側のペーパーにも証明力がある…)、筆跡が一旦デジタル化されればコピーも消去も容易になります。この問題、サイン文化である欧米では、既に電子署名の安全性の問題として認識されており、技術的な問題を含めて安全性を高めるための対策なども検討されてきました。今般の政府方針のように、デジタル化と脱ハンコを同時に進めるとしますと、高度な検査機能を備えた電子署名システム、あるいは、他の方法によって本人を確認する必要が生じるのです。

 

 もちろん、欧米諸国においては既に電子署名システムが導入されていますので、不可能なことではありません(署名よりも生体認証の方がより確実かもしれない…)。しかしながら、日本国政府にあって全面的に電子署名システムを導入するとなりますと、一体、どこの企業が受注するのでしょうか。日本国はハンコ文化の国ですので、日本国のIT企業にあって、即、政府に納入できるレベルに製品化している企業があるとも思えません。となりますと、米欧、あるいは、中国のIT大手となるのでしょうが、日本国政府のデジタル化に伴って、仮に、海外IT企業のシステムが採用されるとしますと、日本国政府の内部が外部から透視できるようになり、全てデジタル情報として海外に筒抜けとなる重大なリスクに晒されかねないのです。

 

 脱ハンコについては、マスメディアなどでも好意的な意見が多く見られますが、その先を考えてみますと、必ずしもメリットのみではないようです。リスク管理に重大な問題がある、あるいは、リスク管理が不十分な段階でのデジタル化は、日本国の独立性と日本国民の安全すらも脅かすのではないかと思うのです。


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