世の中には、上手にコントロールしませんと、悪用されてしまうものがあります。‘力’などは、その使い方によっては正義を実現する場合もあれば、暴力に堕する場合もありますので、その最たるものなのですが、テクノロジー、即ち、科学技術の使い方もその一つと言えましょう。科学技術の利用目的については、今日、日本学術会議の基本的なスタンスと関連して、今一度、考えてみる必要がありそうです。
同会議は、科学の利用を平和目的に限定しており、1950年以来、‘戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意’を表明しており、この基本方針は今日まで継承されています。2017年には、改めて自衛隊に対する研究協力を拒絶する姿勢を確認しています。この決意表明は、科学技術の利用目的について、同会議が明確なる倫理判断を行っていることを示しています。
科学技術の目的については、倫理的な判断から一定の制約を課すこと自体は、間違った行為ではないのでしょう。何故ならば、科学技術の利用目的に対して何らの制約も課さないとしますと、地球を破壊することも、人類を滅亡させることも簡単にできてしまうからです。この意味において、科学技術の利用目的を定めるに際しては善悪の判断を伴うのですが、果たして、日本学術会議が定めた戦争を目的として科学技術の研究の禁止は、悪を退けて善を選択したことを意味するのでしょうか。同会議の方針については、二つの側面から疑問が提起されるのではないかと思うのです。
第一の側面とは、国際法において正戦論として議論されてきた問題であり、かつ、日本国憲法第9条の問題とも関連しています。‘正しい戦争とは、存在するのか’という問いかけに対しては、正反対の二つの回答があります。一つは、全ての戦争は無条件、かつ、無差別に悪であるとする戦争絶対悪説であり、もう一つは、正当な権利を侵害する行為に対する正当防衛や暴君による国民に対する虐殺や弾圧等を条件として、正しい戦争を認める正戦論です。
日本学術会議の見解は前者に全面的に依拠するのですが、今日の国際社会は、後者の説に基づいて制度設計がなされています。例えば、国連を枠組みとした集団的安全保障体制では、平和に対する脅威、即ち、侵略等が発生した場合には、それを抑止するための警察活動的な文脈における軍事行動が、すべての国に許されています。そして、国連憲章第51条が定めるように、主権国家には正当防衛としての自衛権が認められていますので、戦争=絶対悪の立場は採らないのです。仮に、国際社会の秩序を維持するための制裁としての軍事力の行使や正当防衛権までも否定してしまいますと、逆に、悪しき侵略国家がのさばることとなり、善ではなく、悪に貢献することになるからです。この観点からしますと、日本学術会議の自衛隊への研究協力拒絶は、悪への消極的協力ともなり得ましょう(ましてや、間接的であれ、中国の軍事技術の向上には貢献したとなれば、悪への積極的協力ともなる…)。
第二の側面は、悪とは、戦争のみに限定されないことです。たとえは、日本学術会議は、情報通信技術の分野における中国との研究協力に対しては、何らの禁止声明を発してはいません。しかしながら、同技術は、アメリカで既に制裁が発動されているように、ウイグル人に対する弾圧に使用されていますし、全国民に対する徹底的な監視体制の構築を可能としました。非民主的、かつ、独裁体制を敷く共産主義国家、あるいは、全体主義国家との研究協力は、それが間接的であれ、人権弾圧を援ける行為となるのです。これは、明白なる技術の悪用ですので、日本学術学会は、倫理的な判断を成すならば、人権弾圧に資する技術に対しても厳しい姿勢で臨むべきではなかったかと思うのです。因みに、ウイグル人弾圧を阻止すべく、アメリカ政府は、既に人権侵害に関与したとして中国人や中国企業に対して制裁を科しています。
以上に二つの側面から日本学術会議の倫理的判断の妥当性について述べてきましたが、その現行の判断には異論が続出しそうです。科学技術の目的を人類の普遍的な価値への貢献に限定するとしても、正当防衛に関する技術の研究は認めるべきであり、況してや、中国といった全体主義国家との技術協力は、軍事部門はおろか、全ての分野において堅く禁じるべきではないかと思うのです。