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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

日本国の歴史的役割は‘バベルの塔’の崩壊?

2020年10月27日 12時39分23秒 | 国際政治

 昨日、菅義偉首相は、就任後初の所信表明演説に臨むこととなりました。その内容は、と申しますと、日本国独自の政策を示すというよりも、国民を含めた日本国全体を、ある国際勢力が定めた‘未来ヴィジョン’に組み込むための‘工程表’、あるいは、作業手順であったように思えます。

 

 同‘未来ヴィジョン’を描いた国際勢力とは、おそらく、イエズス会や東インド会社等の流れを汲む国際組織であり、世界史の裏舞台にあって、共産主義やグローバリズムの両者を操ってきたものと推測されます。フランス革命やロシア革命の首謀者がロスチャイルド家といった国際金融資本家であったことは既に知られていますし、中国が僅か数十年にして世界第二位の経済大国に伸し上がったのも、同勢力が背後にあって改革開放路線を指南したからなのでしょう。世界銀行から北京にアドヴァイザーが派遣されていたのも、今や周知の事実となっています。国連もまだ、同ヴィジョンの実現に向けて全世界を誘導する実行部隊なのでしょうし、スイスのジュネーブで開催されるダボス会議に詣でる各国首脳の姿は、同組織の‘代理人’、あるいは、‘下僕’と化している首脳が多いことをも示しているのかもしれません。日経新聞の朝刊では、首相の所信表明演説を、‘大号砲’と表現しておりましたが、この明治風の響きにも、今般の所信表明演説の背後に潜む国際組織の存在感が暗示されているように思えます。菅首相の上に位置するさらに上からの‘絶対命令’なのですから。

 

 国家の政府の背後にあってそれを操る勢力は、米欧諸国では‘ディープ・ステート’と呼ぶ向きもありますが、その実在性については陰謀論として片づけられる段階を越えているように思えます。その理由は、こうした存在を想定しないことには、説明のつかない事象が世界レベルで多発しているからです。‘国際協調’の結果に過ぎない、とする反論もありましょうが、揃いも揃って各国が同じ方向に動いてゆく姿を見ますと(中国までも‘二酸化炭素ゼロ’を言い出している…)、各国、並びに、企業の上層部にあって、同一の‘未来ヴィジョン’を共有しているものと想定せざるを得ないのです。

 

 そこで、こうした‘未来ヴィジョン’の存在を仮定しますと、日本国は、極めて厳しい立場に置かれていることが分かります。今般、中国のアントが上海と香港の証券取引所で同時上場する運びとなり、その額が3.6兆円にも上ることから、‘何故、日本国は、GAFAやBATのようなグローバルなIT大手を誕生させることができなかったのか’とする半ば自らを責めるような声も聞こえます。その原因としては、雁字搦めの規制、トップの決断の遅さ、自己過信、旧態依然とした慣行…などが挙げられていますが、真の原因は、国際勢力が圧倒的な市場規模の強みを有する中国を選択した結果であって、日本国側にあるのではありません。1985年のプラザ合意以前にあって、技術力に抜きんでた日本国は様々な産業分野でトップランナーでしたが、国際組織は、その独走を決して許さなかったのです(交渉相手はアメリカでしたが…)。今般にあっても、日本国が様々な改革を実行し、日本企業がIT大手として世界に打って出ようとしても、それを決して許そうとはしないことでしょう。成長阻害的政策の押し付け、政治家や企業トップの篭絡、マスコミの動員、偽旗作戦、洗脳、そして暴力や脅迫など、あらゆる手段を用いて潰そうとし、許される、あるいは、促進されるべき‘改革’とは、菅政権が掲げているグローバリズムへの‘順応’としての‘改革’のみなのです。

 

 それでは、日本国は、菅首相を介して発せられた‘大号砲’に従うべきなのでしょうか。おそらく、その先には、オーウェルの『1984年』をさらにバージョンアップさせたデジタル社会という名の監獄が待っているかもしれません。一旦、同体制に組み込まれますと、そこから抜け出ることもままならないのです。政府も全ての人々の言動も、デジタルによって完璧なまでに管理されているのですから。かろうじて国家の枠組みや名称は残されたとしてもそれは名目に過ぎず、全世界は、‘未来ヴィジョン’に取り込まれ、国家も個人も自己決定権を失い、固有の社会を維持することもできなくなることでしょう。そして、人々は、‘ビッグ・ブラザー’が一方的に決めつけた‘幸せ(不幸せ)’を強要されるのです。

 

 今般、菅首相の所信表明演説が、推測されている‘未来ヴィジョン’とあまりにも符合したため、政府による上からのディストピアへの誘導が現実味を帯びてきました。ディストピアへの道を避けるためには、日本国こそ、他の諸国に先駆けて‘別の道’を提唱するべきなのではないでしょうか。それは、規模(量)から質へ、画一から多様性へ(各国の歴史や伝統を含めて…)、淘汰から共存へ、愚直な開放から賢明な閉鎖へ、単純な集権から精緻な分権へ、束縛から自由へ、全体主義から民主主義へ、そして、従属から自立に向けた方向性の転換ではないかと思うのです。もしかしますと、日本国は、現代の‘バベルの塔’を崩壊させる歴史的役割を担っているのかもしれません。


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