フランスでは、イスラム教の教祖であるムハンマドの風刺画を生徒に見せた歴史教師が殺害されるという痛ましい事件が発生しました。同国では、2015年にはシャルリー・エブド氏襲撃事件も発生しており、表現の自由と信仰との間の抜き差しならない関係を示しています。そして、この事件は、自由主義世界と全体主義世界とが混在する場合の、寛容の限界をも問うているように思えます。
フランスが代表する自由主義世界とイスラム過激主義が体現する全体主義世界との両者を比べますと、全く以って対称的です。フランスでは、あらゆる信仰の自由が許されていますが、イスラム過激主義世界ではこの自由はありません。前者では、一先ずは、内面の自由である限り、イスラム過激主義者にも居場所があるのです。一方のイスラム過激主義では、異教徒の存在は許されませんので、イスラム過激主義世界にあって他の宗教や思想を信じる人は、同教に改宗しない限り、完全に排除されてしまいます。この非対称性によって、フランスでは、イスラム過激主義の移民が定住し、混住状態となる一方で、イスラム教徒が排除されることはないのです。
また、表現の自由を見てみますと、前者では神をも冒涜したり、風刺画として描く自由も保障されています。マクロン仏大統領も、政府要人400人が参列した国家追悼式において読み上げた弔事において、「われわれは、あなたが教えた自由を守る。風刺画をやめさせない」と語り、テロに屈せずに表現の自由を護り抜く強い意志を表明しています。一方のイスラム主義では、絶対者である神や預言者マホメッドに対する冒涜的な行為は許されません。
以上に信仰の自由と表現の自由の二つを取り上げて比較してみましたが、自由主義とイスラム主義とは正反対です。そして、もう一つ、両者の間には正反対の自由があります。それは、人の命を奪う自由です。実のところ、フランスでは、この自由は認められていません。命とは、個々人の基本的な権利の基幹的な部分ですので、他の領域にあって広く自由が保障されてはいても、他者の命を奪うことだけは決して自由ではないのです。とろが、イスラム主義を見ますと、条件付きながらもこの自由が認められています。つまり、アッラーの神やマホメットを侮辱するものに対しては、殺人の自由が許されているのです。しかも、イスラム過激派のみならず、イスラム教の聖典である『コーラン』にあっても多神教の信者に対する殺害を認めていますので、異教徒に対する殺人容認は、イスラム教の最大の問題点の一つとも言えましょう。
フランスの自由主義社会とは、神の存在さえも疑う精神的な自由が認められる社会であり、それこそが、近代合理主義を生み出したフランスという自由な国家の神髄であるのかもしれません。時にしてその聖なるものに対する冒涜的な態度に対する批判はあるのですが、あらゆるものを懐疑の対象にし得る自由な精神が、人類の文明や科学を発展せしめたことは否定のしようもありません。権威に対する盲従は、時にして人々を精神のみならず、その行いにおいても‘不条理の牢獄’に閉じ込め、伸びやかな発展を阻害してしまうことも少なくないからです。例えば、イスラム教に内在する問題や危険性に対処するには、イスラム教徒自らが信じる教義を客観的に考察の対象とし、議論を行う必要があるのですが、イスラム主義者は、何が問題であるのかを知る、あるいは、疑念を懐くことさえ許されないのです。
ところが、フランスに象徴される他者に対する寛容を含意する自由は、全体主義者、しかも、自由主義思想の持ち主に対する殺人を容認する全体主義者が同一の社会に混住する場合には、それは、自らの死を意味します。つまり、自由主義者の寛容には限界があると言わざるを得なのです。この点を考慮しますと、デモを起こして非難の声を上げるよりも、自由主義国なればこそ、自由主義社会の寛容の限界について公開で議論し、過激なイスラム主義者とは共存できない理由をロジカルに説明すべきかもしれません。そして、イスラム主義者に対しては、‘剣か、コーランか’ではなく、‘フランスか、イスラムか’、あるいは、‘自由か、信仰か’の選択を求めるのです。後者を選択する場合には、自らフランスから去る、あるいは、フランス当局によって強制退去させられたとしても致し方ないのではないでしょうか。
実のところ、こうした問題は、程度の差こそあれ、日本国を含む自由主義諸国に共通した問題のように思えます。何故ならば、殺人容認の危険思想は、イスラム過激主義に限定されているわけではなく、共産主義やカルト、さらには‘敵国’などにも見られるからです。現実を直視すれば、自由主義国は、自らの社会を護るための正当防衛の権利として、全体主義国家からの入国には制限を設けるべきとする主張は、人種や民族差別には当たらないように思えるのです。全体主義体制や権威主義体制とは、その本質において閉鎖された社会でしか成立しないのですから。