こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)見ないのに、見た人と同じくらい証しができますか

2021-04-10 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/4/11(No.1117)
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神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)
見ないのに、見た人と同じくらい証しができますか
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イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(20・29)今年あらためてイエスがトマスにかけた言葉を読み味わって、聖書のみことばは何度読み返しても新しさがあると感じました。

数日前、老人ホームにミサに行きました。ミサの参加者は、当然のことですが先唱のお手伝いをしている職員を除いて全員高齢者です。高齢者と聞くと、動作が遅いと考えるかも知れませんが、祈りに関しては案外早口です。早口と言うより、早すぎます。

この日のミサは復活の八日間という期間だったので、平日でありながら「栄光の賛歌」があります。私が「天のいと高きところには神に栄光」と唱えると、皆さん一斉に競争です。「地には善意の人に平和あれ。われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。」まるで100m競争です。高齢者が、早口で唱えているのを見ていたら、今にも息が切れて死んでしまうのではないかと心配します。

私の正直な感想は「本当は、ゆっくり唱えられないのだろうな」というものです。動作はゆっくりで、じれったいのに、祈りは誰とも歩調を合わせず早口で唱える。これは実は、「ゆっくり唱えることができないのだ」と、私は見抜いています。

つまりこういうことです。「栄光の賛歌」をゆっくり唱えるためには、頭の中に祈りの文字がくっきり浮かんでいなければなりません。それをなぞるように、あるいは筆で書き写すようにゆっくり唱えることは、多くの高齢者には難しいのです。むしろ、誰よりもゆっくり唱えることのできる人、もっと言うと恐ろしくゆっくり唱えることのできる人のほうが、祈りを深く理解していると思います。

ここで、イエスがトマスにかけた先の言葉が浮かびます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」トマスは心を閉ざして、他の弟子たちの話に耳を傾けることができなくなっていました。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言った時、素直に喜べなかったのです。

心を開いて、主が復活してくださったことを喜んでいたら、トマスはもっと偉大になれたでしょう。マルコ福音書が書き残した通りです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9・35)広い心で、起こっている出来事を迎え入れることができたなら、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)という答えも、もっと輝いたことでしょう。

ここで一つ、まとめを作りましょう。祈りをよく覚えている人は、すらすら唱えることができます。しかし、それでもあえて、恐ろしいほど祈りをゆっくり唱えることのできる人のほうが、深く祈りを理解している人なのです。だからと言ってミサのときに「栄光の賛歌」を恐ろしくゆっくり唱える必要はありませんが、それができるだろうか?ということは、ご自分で確かめてみると良いと思います。

「地には善意の人に平和あれ。われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる。」こんなスピードで、完璧に唱えきることができるでしょうか?皆さんはその境地までたどり着いているでしょうか。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」見ないのに、まるで見てきたかのように、すみずみまで描き切る。イエスのみことばをこの耳で聞いていないのに、まるで聞いたかのように語る。トマスだけでなく、他の弟子たちも、自分が見たこと聞いたことを次の世代に宣教し、語り継ぎます。

そして何世代か入れ替われば、直接見聞きした人は誰も居なくなります。それでも、「見ないのに信じる人は、幸いである」そんな弟子に育っていく人たちがいて、今の教会が成り立っているのです。

私たちの中で、教皇聖ヨハネ・パウロ二世と、教皇フランシスコを直接見た人は結構いるはずです。けれども何十年かすれば、両教皇を直接見た人は居なくなります。教皇様が司式してくださったミサに参加した時のあの一体感を、私たちは次の世代にちゃんと伝えることができるでしょうか?受け取ってくれる相手が、次の何十年間、来日した教皇様を生き生きと伝えられるかどうか。これはまさに私たちにかかっているのです。

たとえば「信仰宣言」を、どんなに遅い速度ででも唱えることができる。それくらい体に覚え込ませてください。そうすれば、どんなに教会から遠ざかっている人にでも、あなたの信仰は伝わるでしょう。その時あなたは、真の意味で「見ないのに信じる人は、幸いである」とイエスから喜んでもらえる人になれるのです。

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‥次の説教は‥‥
復活節第3主日(ルカ24:35-48)
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ちょっとひとやすみ
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▼脚本家の橋田壽賀子さんが亡くなり、すぐにあちこちのテレビ局が特集を組んだ。インタビュー番組の中で、「これまでひっきりなしに記事の依頼があり、それを断るのが楽しい側面もあったが、ある時からぱったりと記事の依頼が無くなった。その時に『あー、私は世の中に必要なくなったのかしら』と感じた」というやり取りがあった。
▼橋田さんの言葉から、「世の中に必要とされる」というのは生きる大きな原動力だと理解できる。世の中に必要とされているから頑張れるし、やりがいを持って生きている。それでも何かの変化で、今まで頼みに来てくれていた人が来なくなり、今までその人なりに与えられた「舞台」に立っていた人が舞台を降りる時もやって来る。
▼その時「もう生きている意味が無い」と感じるか、「もう一段高い要求が来た」と感じるかはその人次第だ。誰からも頼まれごとをされなくなった時、私はそれを受け入れることができるだろうか。受け入れることができるように、すでに受け入れている人に教えを請うことにする。

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今週の1枚
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第724回目。カタツムリがすでに出現。「恐ろしくゆっくり」を学びたい。

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† 神に感謝 †
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