こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第6主日(マコ1:40-45)「よろしい。清くなれ」を保つために

2018-02-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/2/11(No.928)
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年間第6主日
(マコ1:40-45)
「よろしい。清くなれ」を保つために
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年間第6主日B年、「重い皮膚病を患っている人をいやす」場面です。過ぎた金曜日に本日の朗読個所を読む切り口を神さまから与えていただきました。そのひらめきというか、照らしを取り入れながら、与えられた朗読から学びを得たいと思います。

堅信式も一週間後と迫ってきました。この前の金曜日に試験をしましたが祈りの試験で残念な点数をあげた子供がいました。信仰宣言を唱えることができなかったのです。わたしはある医者から、「病人が医者の所に訪ねてきたら、まずその人に医者は謝るべきだ。なぜなら医者の力不足で、その人に病気の予防をほどこせなかったのだから」という言葉を聞いたことがあります。

実際の医者が「病気にさせてしまい、申し訳ありません」と謝っている場面を見たことはありませんが、信仰宣言を唱えることができなかったこの子供に、わたしはまず謝りたいと思いました。わたしの力不足のために、この子は祈りを覚えることができなかったのです。

今週金曜日は堅信式のリハーサルで、この日までにこの子には信仰宣言を覚えてくるように伝えました。きっと覚えてきてくれると思っていますが、仮に覚えてくることができなかったとしても、それはわたしの力不足だったのですから、生涯わたしは今年の堅信対象者の子供たちに果たせなかった責任を背負って生きていこうと思っています。

今週の福音朗読では、重い皮膚病を患っている人がイエスに「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(1・40)と言います。イエスがためらうことなく「よろしい。清くなれ」(1・41)と言われたことからも、重い皮膚病の人は純粋な気持ちで願い求めたのでしょう。

清くなった人は、純粋にその清い状態を保つ必要がありました。ところが清くされた人は、イエスに寄せていた信頼を清く保つことができなかったのです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」(1・44)イエスの指示を、忠実に、かたくなに守ることも、イエスに対する信頼を清く保つために必要なことです。

しかし「彼はその場を立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ」(1・45)たとあります。悪気はなかったかもしれません。けれども清くされた人の行為は、イエスに寄せていた清い心から離れてしまったのです。たとえ言い広めることで多くの人が出来事を知ったとしても、イエスに寄せていた清い心を失った人のことばは、出来事の意味を違った形で、あたかも魔法使いのわざのように伝えてしまっていたのです。

わたしは祈りの試験で残念な点数を与えた子供に対し、内心腹立たしさを覚えました。しかしそれは正しいことなのかと、この説教を準備しながら考え直したのです。たしかに傍目には「毎週けいこの初めに天主の十戒、けいこの終わりに信仰宣言を唱えてきたのに、ただの一行も唱えられないとは何事だ」と思います。

けれどもわたしは、叙階してから25年後に、そういうくだらないことを言うために司祭になったのだろうかと考えたのです。「もう一人のキリスト」とまで言われる身分にしてもらったのに、イエスに寄せる清い心は失われ、「それが一年間施したけいこにたいする君の答えか?」と言っているのです。間違っているのはわたしのほうです。

重い皮膚病の人にイエスは「よろしい。清くなれ」と言いました。だからたしかに清くされたのです。けれどもその清さを保ち続けるかどうかは、本人の努力にかかっています。たとえばわたしも、叙階の秘跡を通して「もう一人のキリスト」に変えていただきました。叙階の秘跡の中では、聖香油を両手に塗られ、清い手に変えられたのです。

皆さんの中にも、尊敬する人と握手をして、その日一日手を洗いたくないと思うことがあるでしょう。そのように、わたしは大司教様によって聖香油を手に塗っていただき、同じ気持ちになりました。けれどもその時の気持ちを保ち続けるのは本人の努力や心がけです。清くけがれのない手にしていただいたのに、25年たった今はどうだろうか。堅信を受ける子供たちの試験を終えて、子供たちへの接し方を振り返って、思い返すのです。

今日このミサを始めるにあたり、健康祈願祝福式を行い、3名の方が祝福式に臨まれました。祝福はたしかに受けたのですから、祝福されたのです。ですがこれまで話しましたように、これからの日々を祝福された状態で積み重ねていくのは、やはりご本人の努力と心構えなのではないでしょうか。

例えば、「神の祝福を、人生の節目に受けた。神の祝福を真剣に受け止めながら日々を積み重ねていくことが、祝福された人生につながっていくのだ」こういう考え方は必要だと思います。「祝福を受けなさい」との神からの招きは、今日この日の一瞬なのではなくて、「これからも祝福を受けて生きる人でありなさい」という「人生にわたる招き」だと考えましょう。

「よろしい。清くなれ」(1・41)。わたしもロザリオやベールの祝福を依頼されれば祝福の言葉を取り次ぎます。けれども「祝福されたロザリオやベールを持っているから祈らなくても安全だ」という意味ではないのです。祝福されたロザリオやベールを用いながら祈ることで、祝福された日々を積み重ねていくのです。

重い皮膚病から清くされた人は、清くしてくださったイエスが続けて言い渡した言葉を軽んじました。これから灰の水曜日を迎え、イエスは十字架へと歩みを進めます。奇跡や権威に満ちた言葉を聞いていた時は心躍らせたのに、イエスが十字架を選ばれると背を向ける人であってはいけません。イエスがなさるすべてにわたしたちもついて行くことにしましょう。

「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」「よろしい。清くなれ」わたしたちを招くお方は、十字架の最期の場面までわたしたちの望みに答えて働いてくださるお方なのです。

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‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日
(マコ1:12-15)
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ちょっとひとやすみ
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▼平昌オリンピック、ついつい遅くまで見てしまい、夜更かしをしてしまった。朝はどうしても頭が回らず、少し休ませてもらっていた。そのため説教案を仕上げる時間が1時間くらいずれ込み、昼からの配信作業になりそうだ。
▼昼は昼で、できれば説教案ではない時間の使い方をしたいと思っているので、午前中にメルマガ配信、ブログの更新、ホームページの更新まで終わらせるのが理想ではある。そこまでできていれば、午後に急に病院に呼ばれても、あるいは来訪者の応対が必要になった場合でも、説教のことを気にしないで済む。
▼このような考えに落ち着いたのは、初めて主任司祭になった太田尾小教区の時だった。それまでは助任司祭だったから、任せられた範囲は限られていたが、主任司祭は小教区で起こりうるあらゆる状況に対処しなければならない。
▼「説教が出来上がっていないから病院に来るように言われても無理です」とは言えない。だから、「土曜日の午後は、ない物と思うべきだ」という結論にたどり着いたのである。もちろん何もしないのではないが、すぐにその場を離れることができることにとどめて午後は過ごしている。
▼小さなことだが、主任司祭になってより「司祭はもう一人のキリスト」「司祭は仕えられるためではなく、仕えるために存在する」そういうことが実感としてわかるようになってきた。オリンピックの厳しい練習を積み上げた人にはかなわないが、司祭もどんな環境にあっても結果を出せるよう、日々自分と向き合っている。

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今週の1枚
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第535回目。iPhoneにも、望遠レンズが装着できるんだ。日南キャンプに持参。

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