こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第22主日(ルカ14:7-14)イエスが指し示すいのちの方角に向き直る

2016-08-28 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/160828.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
16/08/28(No.844)
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年間第22主日
(ルカ14:7-14)
イエスが指し示すいのちの方角に向き直る
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「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14・11)神様は日本にいるわたしたちに生き方の模範、道しるべを示してくださいました。ユスト高山右近です。彼の生き方を通して、今週の福音を身近なものとしましょう。

雨がなかなか降らない夏でした。朝ミサに続けてラジオ体操をしていて、たった5分の体操で筋肉痛です。皆さんにもらった湿布が大いに役立っています。6時半から5分間だけ雨が降ってくれればラジオ体操を休めるのになぁと思っているのはわたしだけでしょうか。

過ぎた週にお休みをいただいて、初めは五島に行ってきました。実家に顔を見せるのと、期日前投票以来の釣りをするためです。魚も油断していたようで、案外簡単にマダイが釣れました。天然マダイです。余談ですが、天然マダイと養殖マダイは鼻の孔を見れば区別がつきます。

広島カープにマジックが点灯しました。いよいよこの日が来ました。問題は、パリーグの相手球団です。パリーグは首位と2位の差がほとんどないので順位の入れ替わりもあるかもしれません。広島と福岡ならば、10月27日(木)に日本シリーズを観に行く予定です。

ですが現在の首位が本当に上がってくるのか疑わしくなってきました。パリーグがどうであれ、セリーグは違います。2位のどこかのチームとこの説教を準備した時点で8ゲーム開いています。今年はぜひ、25年ぶりの奇跡をもたらしてほしいものだと思っています。

さて、福音を学ぶために高山右近に目を向けてみたいと思います。日本の教会の長年の願いであった高山右近の列福が、来年2月7日に大阪大司教区で行われることになりました。高山右近を現代人に投げかける意義と価値があると、教会は認めたのです。それはつまり神様もそう思っておられるということです。

ユスト高山右近 (以下右近) が生きた16~17世紀初頭は、長く続いた戦乱がようやく収束して国が統一に向かう時代です。人びとは、知恵と才覚さえあれば、誰でも目に見える繁栄や権力、名誉が手に入るという夢をもてました。その気になれば、上を目指せる時代だったのです。

そのような時代に右近はキリスト教の信仰に出会いました。右近は、上を目指す戦国武将たちの世界に生まれ育ったのですが、社会の中で認められる富や権力や名誉が、実ははかない、一時的なものに過ぎないことを見抜きました。右近は、実力派の大名と目される人物でしたが、絶えず上を求める競争から離れて、人間を真に幸福にする信仰の道をあえて選び取ったのです。上を目指す生き方から、あえてへりくだる道を選び取りました。はた目には、右近の生き方は「負け組」と映ったでしょう。

右近は、人の価値は才能や知識、能率・効率、業績によるのではなく、無条件に神から愛されている事実によることを、イエス・キリストの福音から学び取ったのです。実際の右近の生涯は試練の連続であり、追放に追放を重ねる生活を余儀なくされました。地位も名誉も失い、流浪の生活が続き、ついに祖国を追われても、右近は神だけに愛される幸せを生き抜きます。

現代は相対的価値観に支配され、信念を貫いて生きることが困難な時代です。この現代に向けて右近は、どのような状況に置かれても、神と人への愛を選びの基準にする道を示しました。右近は、ぶれることなく一つのこと「福音に耳を傾け、神に従う」という生き方を選び続けたのです。

右近の列福の意義をより深く理解すると、日本の教会は、右近があかししたイエス・キリストの福音が確かに信じる価値があり、現代社会に大きな光をもたらすことを力強く訴えていけるはずです。高山右近は、「へりくだる者は高められる」(14・11)の鏡です。誰もが上を目指し、周りを蹴落としてでも上り詰めようとした時代に、イエスが示した生き方を輝かせたのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」真っ先にイエスの生き方が、ここに示されています。イエスの最後の場面を思い出しましょう。イエスは十字架を背負い、三度倒れました。背負う必要のない十字架、人間が背負うべき罪を背負って、三度ひれ伏したのです。誰にもひれ伏す必要のない方が、みずからへりくだったのです。

そのいちばん低くされたイエスを、父なる神は高めてくださいました。復活し、天に昇って、へりくだる者に用意されている栄光を示してくださいました。イエスは十字架を背負い、繰り返しお倒れになる中で、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」(14・13)を招きました。イエスが担う十字架を代わってあげられない人、お返しのできない人を招いたのです。

多くの人がイエスの姿に失望し、肩を落とす中、イエスの最期に輝きを見た人もいました。百人隊長です。「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」(ルカ23・47)「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2・8)イエスの生き方の中に輝きを見つけ、百人隊長は聖書に登場する人物となりました。

教会は再び高山右近に光を当てて、へりくだる者の生き方がイエス・キリストと出会うこと、降りて、仕えて生きる右近は今も確かないのちの方角を指し示していると証言しています。わたしたちも高山右近の列福をまたとない機会として、右近の「降りて、仕える生き方」に倣い、現代社会にいのちの方角はこちらですと指し示しましょう。

イエス・キリストが指し示す同じ方向を指さして初めて、わたしたちはキリスト者と呼べるのではないでしょうか。

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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(ルカ14:25-33)
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ちょっとひとやすみ
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▼へたくそな聖歌を歌う場面に立ち会った。母親が長い闘病生活ののちに亡くなり、通夜と葬儀を執り行った時のことだった。遺族のたっての願いで葬祭場を借りて通夜も葬儀もおこなった。遺族のみの参列、教会での葬儀のように聖歌を歌う人もなく、淡々と進む中でのことだった。
▼葬儀のあとの告別式で、「献花をお願いいたします」と葬儀社の担当者が案内して、司式したわたしのあとを10人くらいの家族が献花し始めた。その時「主はわれらの牧者」だったか、喪主が聖歌を歌い始めた。
▼「主はわれらの牧者。わたしは乏しいことがない。神はわたしを緑のまきばに伏させ、いこいの水辺に伴われる。神はわたしを生き返らせ、いつくしみによって正しい道にみちびかれる。」
▼へたくそだったが、心を打った。「主はわれらの牧者。わたしは乏しいことがない。」確信を持っている様子が伝わる歌い方だった。同じ聖歌を歌っていても、主が自分たちの牧者と信じ切っていない人がなんと多いことだろうか。
▼主がおられるから乏しいことがないと歌いながら、この世の富を追い続けてまだ満たされないと嘆いている人がなんと多いことだろうか。そんな中で、母を送り出すこの息子は、母のこれからの運命にも不安がなく、主に委ねたから大丈夫なのだ。そんな思いが歌から伝わってきた。
▼なかなかこういう歌い方をする信徒には出会えないものだ。上手下手を超えたところで、心を打つ聖歌を久しぶりに聞くことができた。

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今週の1枚
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第451回目。広島カープマジック20点灯。25年応援し続けた自分へご褒美を注文。

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† 神に感謝 †
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