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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
11/05/08(No.533)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:13-35)
イエスはパンを割いて、御自身を現してくださる
‥‥‥†‥‥‥‥
(導入・・・「千の風になって」を一部分歌う)
気持ちよく歌わせていただきました。一時期、本当に流行りました。ただ、わたしにはちょっと違和感があります。「そこにわたしはいません。眠ってなんかいません」と言われても、そこに骨はあるし、眠っているじゃないかと返したい思いがあります。
ある亡くなった方の納骨式で、遺族の方からこの歌を歌わせてほしいと言われたことがあります。止めはしませんでしたが、わたしは一緒に歌う気持ちになれませんでした。たった今納骨したお骨がそこにあるのに、「そこにわたしはいません」と言えなかったからです。もちろん、歌いたい気持ちは分かります。でも、「死んでなんかいません」と歌うのは、死んだ人に対してどうなんだろうと思ったことは確かです。
ただ、今日は歌いました。イエスに限っては、この歌は見事に当てはまると思ったからです。イエスのお墓の前で婦人たちは泣いていました。「泣かないでください。そこにわたしはいません」イエスに限っては、これはそのまま当てはまるのです。
今週の福音朗読で登場する二人の弟子。彼らも墓に心を残していた人々でした。「天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げた」(24・23)この意味が理解できないでいました。彼らはエリコに向かって行くあいだ、「イエスは生きておられるとはどういうことだろうか」とあれこれ考え込んでいたのかもしれません。
そこへ、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められました。復活したイエスが二人になさったことが2つあります。1つは、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを解き明かしてくださったということ。もう1つは、パンを割いてお渡しになったということです。
この2つの働きを通して、エマオに向かっていた二人の弟子は、一緒におられる方がイエスだと分かりました。そして、婦人たちが天使に告げられた「イエスは生きておられる」その意味が理解できたのです。
二人は、墓に心を残してきたことが間違いであったとようやく理解できました。イエスは生きておられるからです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(24・32)イエスが生きておられるのでなければ、どうして心が燃えたりするでしょうか。イエスが墓に眠ったままで、どうしてパンを割いたときにイエスだと分かるでしょうか。
彼らは急いでエルサレムに戻ります。六十スタディオンも離れていたのに、距離を感じないほどに興奮していたのかもしれません。そこではすでに、「十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(24・33-34)とあり、十一人の弟子たちも声を弾ませていたのでした。
もう一度確認します。「イエスは生きておられる。」このことに二人の弟子が気付いたのは、「聖書を説明してくださったとき」また「パンを裂いてくださったとき」でした。実はわたしたちも、「イエスは生きておられる」と証しするためには、2つの経験が必要です。1つは、「聖書を説明してもらうこと」1つは「パンを割き与えていただくこと」です。
「パンを割き与えていただくこと」は、毎週確実に実行しています。では、「聖書を説明してもらうこと」はどうでしょうか。そこで、今年の聖書愛読マラソンに先駆けて、浜串教会と福見教会は5月の残りの期間と10月の朝ミサの前に、高井旅教会は6月と9月の前晩のミサの前に、浜串小教区の「聖書に耳を傾ける集い」を行い、聖書を通して、「イエスは生きている」という体験を持ちたいと思います。
浜串教会と福見教会のために5月と10月を選んだのは、聖母月とロザリオの月で、必ず夕方にロザリオをします。ですから、朝の時間は必ずしもロザリオでなくてもよいと考えました。高井旅教会は、一日のうちに2回ロザリオをする機会がないので、月をずらしました。
取り組み方は、次のようになります。まず、お世話する人を選びます。お世話する人が、20分ほどの聖書朗読を録音したCDを流します。参加者は、録音CDの朗読に合わせて、聖書のページを追っていくというものです。これまで、2つの小教区で取り組んできまして、一定の効果が上がっていますので、こちらの小教区でも実行したいと思っています。
もう一度、念を押しますが、わたしたちが信仰を確実に保つためには、「イエスは生きている」という実感が必要です。生活を支え、導いておられるイエスが、今も生きている。だから、わたしはこの信仰を続けることができる。この確信がなければ、信仰を保ち続けることは無理です。
昔起こった出来事をいつまでも大切に守る。それは、今この時代に、意味のあるものでなければならないのです。昔は意味があったけれども、今は何の意味もないものを、守り伝えることはできないのです。
当然、みなさんにも多少の苦労をかけるかもしれません。ですからわたしも、今まで以上に苦労したいと思います。1つは、早起きすること、1つは、録音聖書を途切れずに準備することです。皆さんは、録音聖書CDをプレーヤーに入れて、再生させるだけでこの活動に参加できます。
イエスは生きている。生活の中で一人一人がこの信仰を証しできるように、それぞれの分に応じて御言葉に触れ、照らし・導きを受けたいと思っています。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼小さなチャペルでミサをすることがたまにある。または、都合があって一人でミサをすることがある。そんな時の体験。ミサの準備を一人でして、さてミサを始めたところ、肝心のミサ典書(儀式書)を出してない。
▼えーい、と思って、儀式書を引っ張り出さずにミサを続けた。毎日のミサというパンフレットを頼りに、開祭の儀、回心の祈り、集会祈願、第一朗読、答唱詩編、アレルヤ唱、福音朗読、パンとぶどう酒をそなえる祈りと、順調に進んだ。叙唱は毎日のミサに幸い付録で印刷されていた。
▼いよいよ奉献文。第二奉献文を唱え、信仰の神秘まで進んだ時に頭が真っ白に。その後の司祭が一人で唱え続ける祈りが、言えそうで言えないのである。何度か言い直したりしてみたが、どうしても確信が持てず、仕方なく儀式書を取り出して確認。
▼儀式書を開くと、あら不思議。儀式書を見なくてもすらすら出てくる。置かないと、出てこないのに、置くと読まなくても言葉があふれてくるのである。きっと、ミサの会衆が集まっている場ではなおさらそうなるのだろう。
▼不思議である。一人ではどうしても唱えられないのに、会衆が集まった場だとすらすら出てくるし、儀式書がそこに置いてあるだけで、ちゃんと唱えることができる。ただ、違うことも考えた。
▼自分が仮に入院した時、または異常な状態に置かれて、ミサの儀式書が手に入らないとき、パンとぶどう酒を手に入れて、ミサの奉献文を暗唱できなければ困るだろうなぁと。そういう場面が絶対起こらないとは言い切れないのだし。
▼だから、もう一度静かにミサをささげる時が来たら、どうすれば儀式書のない困難な場面でも確実にミサをささげることができるかを考えておきたい。一つのヒントになると思ったのは、やはり歌ミサである。抑揚をつけて、歌いながら唱えると、結構間違えずに進めることができるのだ。
▼入院したら、きっとミサは歌ミサになるだろう。歌ミサなんて、生涯ささげないと思っていたが、いつかそんな時が来るかもしれない。その時は見舞いに来てください。
‥‥‥†‥‥‥
新企画今週の1枚
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第140回目。聖母月。今年も、浜串にこの季節がやってきました。
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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こうじ神父
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11/05/08(No.533)
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(ルカ24:13-35)
イエスはパンを割いて、御自身を現してくださる
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(導入・・・「千の風になって」を一部分歌う)
気持ちよく歌わせていただきました。一時期、本当に流行りました。ただ、わたしにはちょっと違和感があります。「そこにわたしはいません。眠ってなんかいません」と言われても、そこに骨はあるし、眠っているじゃないかと返したい思いがあります。
ある亡くなった方の納骨式で、遺族の方からこの歌を歌わせてほしいと言われたことがあります。止めはしませんでしたが、わたしは一緒に歌う気持ちになれませんでした。たった今納骨したお骨がそこにあるのに、「そこにわたしはいません」と言えなかったからです。もちろん、歌いたい気持ちは分かります。でも、「死んでなんかいません」と歌うのは、死んだ人に対してどうなんだろうと思ったことは確かです。
ただ、今日は歌いました。イエスに限っては、この歌は見事に当てはまると思ったからです。イエスのお墓の前で婦人たちは泣いていました。「泣かないでください。そこにわたしはいません」イエスに限っては、これはそのまま当てはまるのです。
今週の福音朗読で登場する二人の弟子。彼らも墓に心を残していた人々でした。「天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げた」(24・23)この意味が理解できないでいました。彼らはエリコに向かって行くあいだ、「イエスは生きておられるとはどういうことだろうか」とあれこれ考え込んでいたのかもしれません。
そこへ、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められました。復活したイエスが二人になさったことが2つあります。1つは、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを解き明かしてくださったということ。もう1つは、パンを割いてお渡しになったということです。
この2つの働きを通して、エマオに向かっていた二人の弟子は、一緒におられる方がイエスだと分かりました。そして、婦人たちが天使に告げられた「イエスは生きておられる」その意味が理解できたのです。
二人は、墓に心を残してきたことが間違いであったとようやく理解できました。イエスは生きておられるからです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(24・32)イエスが生きておられるのでなければ、どうして心が燃えたりするでしょうか。イエスが墓に眠ったままで、どうしてパンを割いたときにイエスだと分かるでしょうか。
彼らは急いでエルサレムに戻ります。六十スタディオンも離れていたのに、距離を感じないほどに興奮していたのかもしれません。そこではすでに、「十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(24・33-34)とあり、十一人の弟子たちも声を弾ませていたのでした。
もう一度確認します。「イエスは生きておられる。」このことに二人の弟子が気付いたのは、「聖書を説明してくださったとき」また「パンを裂いてくださったとき」でした。実はわたしたちも、「イエスは生きておられる」と証しするためには、2つの経験が必要です。1つは、「聖書を説明してもらうこと」1つは「パンを割き与えていただくこと」です。
「パンを割き与えていただくこと」は、毎週確実に実行しています。では、「聖書を説明してもらうこと」はどうでしょうか。そこで、今年の聖書愛読マラソンに先駆けて、浜串教会と福見教会は5月の残りの期間と10月の朝ミサの前に、高井旅教会は6月と9月の前晩のミサの前に、浜串小教区の「聖書に耳を傾ける集い」を行い、聖書を通して、「イエスは生きている」という体験を持ちたいと思います。
浜串教会と福見教会のために5月と10月を選んだのは、聖母月とロザリオの月で、必ず夕方にロザリオをします。ですから、朝の時間は必ずしもロザリオでなくてもよいと考えました。高井旅教会は、一日のうちに2回ロザリオをする機会がないので、月をずらしました。
取り組み方は、次のようになります。まず、お世話する人を選びます。お世話する人が、20分ほどの聖書朗読を録音したCDを流します。参加者は、録音CDの朗読に合わせて、聖書のページを追っていくというものです。これまで、2つの小教区で取り組んできまして、一定の効果が上がっていますので、こちらの小教区でも実行したいと思っています。
もう一度、念を押しますが、わたしたちが信仰を確実に保つためには、「イエスは生きている」という実感が必要です。生活を支え、導いておられるイエスが、今も生きている。だから、わたしはこの信仰を続けることができる。この確信がなければ、信仰を保ち続けることは無理です。
昔起こった出来事をいつまでも大切に守る。それは、今この時代に、意味のあるものでなければならないのです。昔は意味があったけれども、今は何の意味もないものを、守り伝えることはできないのです。
当然、みなさんにも多少の苦労をかけるかもしれません。ですからわたしも、今まで以上に苦労したいと思います。1つは、早起きすること、1つは、録音聖書を途切れずに準備することです。皆さんは、録音聖書CDをプレーヤーに入れて、再生させるだけでこの活動に参加できます。
イエスは生きている。生活の中で一人一人がこの信仰を証しできるように、それぞれの分に応じて御言葉に触れ、照らし・導きを受けたいと思っています。
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復活節第4主日
(ヨハネ10:1-10)
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ちょっとひとやすみ
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▼小さなチャペルでミサをすることがたまにある。または、都合があって一人でミサをすることがある。そんな時の体験。ミサの準備を一人でして、さてミサを始めたところ、肝心のミサ典書(儀式書)を出してない。
▼えーい、と思って、儀式書を引っ張り出さずにミサを続けた。毎日のミサというパンフレットを頼りに、開祭の儀、回心の祈り、集会祈願、第一朗読、答唱詩編、アレルヤ唱、福音朗読、パンとぶどう酒をそなえる祈りと、順調に進んだ。叙唱は毎日のミサに幸い付録で印刷されていた。
▼いよいよ奉献文。第二奉献文を唱え、信仰の神秘まで進んだ時に頭が真っ白に。その後の司祭が一人で唱え続ける祈りが、言えそうで言えないのである。何度か言い直したりしてみたが、どうしても確信が持てず、仕方なく儀式書を取り出して確認。
▼儀式書を開くと、あら不思議。儀式書を見なくてもすらすら出てくる。置かないと、出てこないのに、置くと読まなくても言葉があふれてくるのである。きっと、ミサの会衆が集まっている場ではなおさらそうなるのだろう。
▼不思議である。一人ではどうしても唱えられないのに、会衆が集まった場だとすらすら出てくるし、儀式書がそこに置いてあるだけで、ちゃんと唱えることができる。ただ、違うことも考えた。
▼自分が仮に入院した時、または異常な状態に置かれて、ミサの儀式書が手に入らないとき、パンとぶどう酒を手に入れて、ミサの奉献文を暗唱できなければ困るだろうなぁと。そういう場面が絶対起こらないとは言い切れないのだし。
▼だから、もう一度静かにミサをささげる時が来たら、どうすれば儀式書のない困難な場面でも確実にミサをささげることができるかを考えておきたい。一つのヒントになると思ったのは、やはり歌ミサである。抑揚をつけて、歌いながら唱えると、結構間違えずに進めることができるのだ。
▼入院したら、きっとミサは歌ミサになるだろう。歌ミサなんて、生涯ささげないと思っていたが、いつかそんな時が来るかもしれない。その時は見舞いに来てください。
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第140回目。聖母月。今年も、浜串にこの季節がやってきました。
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