こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第13主日(マルコ5:21-43)イエスはわたしたちの苦しみに触れてくださる

2015-06-28 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/150628.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
15/06/28(No.775)
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年間第13主日
(マルコ5:21-43)
イエスはわたしたちの苦しみに触れてくださる
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年間第13主日B年は、「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」の物語が選ばれました。選ばれた朗読から、「イエスに触れる」「イエスが触れる」ということについて学びを得たいと思います。

先週、これぞ船の船頭という仕事をすることができました。ある浜串出身のシスターが休暇を取って来ていたのですが、「しばらく浜串でお世話になります」とわざわざ司祭館にあいさつに来て、「こちらに着いてすぐ波止場で久しぶりに釣りをしました。お魚を10匹釣りました」と聞かされたのですが、申し訳ないけれども、シスターが釣った魚というのはわたしが釣る魚が捕食している小魚でした。

わたしはとても同情し、一週間滞在すると言うことでしたので、もしシスターが一緒に出掛けてみたいと言うならボート釣りに誘ってみようと心の中で考えました。水曜日の晩に釣具コーナーをのぞき、道具を補充し、木曜日の朝ミサの後に恐る恐る声をかけてみました。

「シスター。わたしは今日ボート釣りに出かけるけれども、シスターがもし興味があれば連れて行くよ。」行かないと言うだろうという読みだったのですが、意に反して行ってみたいということでしたので、初めての鯛釣りに出かけたわけです。

結果はわたしにとって芳しくないものでしたが、シスターはうねりのある海上で3時間ボート釣りに付き合い、一度も船酔いせず、ずっとわたしの指示を守って釣ろうとしました。残念ながら本人が釣ることはありませんでしたが、わたしがキジハタを2匹仕掛けに喰わせたので、その竿をシスターに渡して、シスターはキャーキャー言いながら釣った気分を味わうことができました。

船頭としては、本人が釣り上げてくれるのがいちばん嬉しいのですが、いちおう、釣れたらこんな感じだよと魚のかかった竿を持たせてあげたので満足でした。港に帰るとわたしたちに声をかけてくれる人が2人いました。わたしは鼻高々だったのでそのうちの1人に「わたしが釣って、竿を持たせてあげたんだよ」と自慢すると、「ほんなごどかよ(それ本当の話なの?)」と一蹴されてしまいました。ちょっとわたしでは説得力がなかったかも知れません。

さてイエスはヤイロの娘と出血症の女性を救ってくださいました。実は今週の朗読には前触れのようなものがあったと思っています。おとといの金曜日はマタイ8章の「重い皮膚病を患っている人をいやす」という物語で、「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」(マタイ8・4)とあります。

さらに土曜日には金曜日の続きの出来事として、ペトロのしゅうとめが熱を出して寝込んでいて、イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした(同8・15)という場面が朗読されました。これらの朗読が、年間第13主日の福音朗読をさらに豊かにしてくれていると思ったのです。

金曜日、土曜日、そして今日の朗読で目に留まるのは、イエスが病に苦しむ人々に触れてくださる姿です。本日の福音朗読では出血の止まらない女性が背後からイエスの服に触れます。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」(マルコ5・30)と言われました。これは見た目には出血症の女性がイエスに触れているわけですが、力が出て行ったのはイエスから女性に向かっています。

また、ヤイロの娘は使いの者の報告によって死んだことがはっきりしていましたが、イエスが子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われました(同5・41)。イエスが子供の手を取る動作は、当然イエスが子供に触れているということを意味します。こうして、イエスが病に苦しむ人々に触れてくださるとき、決定的なことが起こっているのです。

イエスが病に苦しむ人々に触れてくださると、すべての時間が止まります。病に苦しんできた時間、わが子を失った悲しみの時間、希望を絶たれた絶望の時間、それら悪が勝ち誇っている時間にイエスは触れて、すべてを停止させてくださるのです。

代わりに、イエスが触れたその時から新しい時間が始まります。苦しみから解放された時間、悲しみの闇から希望の光に導かれる時間、絶望をもはや思い出さない希望の時間です。新しい時間はイエスが触れた瞬間から始まり、決して奪われることはないのです。

イエスが触れることで始まった新しい時間が決して奪われないことは、出血症の女性にかけたイエスの言葉が教えてくれます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(5・34)

今週の福音は、誰も止めることのできないものを止めてくださるお方を指し示しています。誰も奪い去ることのできないものを与えてくださるお方についても指し示しています。それはイエス・キリストです。

わたしたちが日々の暮らしの中で深い淵に落ちていくように感じ、誰もそれを止めることができないと悲しんでいるなら、イエスのもとに駆け寄りましょう。

喜びや希望は続くはずがないと何度も裏切られたことがある人も、今こそイエスのもとに駆け寄りましょう。イエスは、わたしたちに目を留め、触れてくださいます。わたしたちの望むものを、わたしたちの望み以上の形にして返してくださるのです。

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‥次の説教は‥‥
年間第14主日
(マルコ6:1-6)
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ちょっとひとやすみ
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▼お告げのマリア修道会上五島地区の静修のために講話を依頼されていたが、先週の初めにようやく形になり、2回声に出して読み、録音も試してみた。録音した時点では60分を切るくらいだったが、実際に50人くらいのシスターを目の前にして話す時に、どれくらいの時間になるだろうか。
▼わたしは原則、原稿を用意して原稿に沿って話をする。メモがないと話の順番すら正しく思い出せない頭しか持ち合わせていない。ところがわたしが聖スルピス大神学院に在籍していた時、葉書大のカード4枚だけで授業をこなしていた哲学の教授がいた。
▼同じことをしなさいと言われたなら、わたしは90分の講話を埋めるためにパソコンを使ってA4レポート用紙20枚びっしり原稿を用意しないといけないだろう。それを、かの教授は4枚のカードのみでこなしていた。中学時代から原稿を用意しなければ発表も何もできなかったわたしとは雲泥の差である。
▼わたしの印象では、原稿を用意する人と用意しない人の差は、頭の中に原稿があるか、そうでないかの違いだと思う。わたしの頭の中はいつも空っぽであり、もし原稿がなければお手上げである。
▼一度出張先に原稿を持ち込むのを忘れ、青ざめたことがあった。明らかにしたくはなかったが、その時は司祭館のパソコンをパスワードを開いて立ち上げてもらい、ネットで原稿を送信してもらった。本当に、手元に原稿がなければ、頭の中は空っぽなのである。
▼そのような非力な頭脳ゆえ、パソコンの資料を失うとわたしはお先真っ暗の人間だ。頭の中にすべてがある人がうらやましくなる。きっとそういう人は、「慌てる」という経験がないに違いない。パソコン依存症のわたしだから、パソコンが使えない場所に派遣されたら、きっと今のわたしではなくなると思う。

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今週の1枚
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第382回目。本日午後から、50人ほどのシスターを前にえらそうに講話をします。

ホームページもご覧ください。
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