こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第17主日(ヨハネ6:1-15)私たちもイエスのパンを分け与える弟子

2018-07-28 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/7/29(No.955)
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年間第17主日
(ヨハネ6:1-15)
私たちもイエスのパンを分け与える弟子
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年間第17主日は典礼暦B年の福音朗読の流れから外れていますが、ペトロの信仰告白に至るまでの奇跡物語の一つとして捉えてみたいと思います。選ばれたのは「五千人に食べ物を与える」奇跡です。単にパンを増やした奇跡としてではなく、「いかにして五千人に食べ物を与えるか」このことに焦点を当てて考えることにしましょう。

与えられた朗読をざっと見渡して、物語全体に味をつけているのはどこでしょうか。イエスが言われた言葉や行動が、物語全体に味付けをしている、出来事に意味を与えているわけですが、どの言葉でしょうか。どのような行動でしょうか。

私はこう考えます。イエスがフィリポにかけた言葉が、これから起こること全体に関わる味付けしていると思っています。それは6章5節「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」ここだと思います。

すると、その後に起こる出来事は初めの言葉と比べれば、その次になるような重みの出来事かもしれません。たとえばパンが増えたことをことさら強調していないのも、ヨハネが何を重視しているかを暗に示しています。

「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」イエスは明らかに、群衆に食べ物を与えようとしておられます。さらに「どこでパンを買えばよいだろうか」この言葉も気になります。パンを買う場所が、いくつもあるとは考えにくいです。

小店とか、郊外にあるショッピングセンターとか、専門店とか、そういう店の区別ではなく、「この人たちに食べさせるパンを与えることができるのはイエスただ一人である」ということを、どうすれば気づかせることができるだろうか。そういう意味ではないでしょうか。

イエスは弟子たちに買い出しに行くよう命じることもなく、その場で大群衆にパンを与えます。しかも、有り余るほど与えました。こうして、「イエスこそ、まことのパンを与える方である」ということを示したのですが、弟子たちは理解が及ばなかったかもしれません。ただ弟子たちはのちにはっきりと理解することになります。

「こう言ったのはフィリポを試みるため(であった)」何を試そうとしたのでしょうか。何が試されているのでしょうか。参考ですが、フィリポは弟子たちの中で抜きん出た存在ではなかったようです。ヨハネ福音書の別の箇所で次のようにイエスに言われています。

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハネ14・9)このフィリポに私はとても親しみを感じます。フィリポが試されていた事柄は、私たちが試されている事柄かもしれません。どんなことでしょうか。

私が考えたのはこうです。「イエス・キリストを与えなければ、この人たちに食べさせることはできない。」この答えにたどり着くかどうかを、フィリポはじめ弟子たちは試されていたのではないでしょうか。同じように私たちも、この人たちに食べさせるには、イエス・キリストを与えなければならないのです。

ところで「この人たち」はどこにいるのでしょうか。福音朗読ではイエスのもとに集まった大群衆でした。私たちにとっての「この人たち」は誰なのでしょうか。私は、「イエス・キリストを必要としている人々」だと思います。

ミサをささげる司祭にとって、「イエス・キリストを必要としている人々」とは皆さんのことです。説教によって神の言葉のパンを分け与え、聖体の秘跡によっていのちのパンを分け与えます。司祭が人々の中に分け入った時は、イエス・キリスト抜きで生きていけると思っている人々すべてが「この人たち」です。この人たちにもパンを与えなければなりません。パンは詰まる所イエス・キリストですから、司祭の生き方、接し方、声のかけ方で何千人もの人にイエス・キリストというパンを与えるよう召されているのです。

ただ司祭だけが、この使命に召されているのではありません。皆さんはミサを通して、みことばのパンと、いのちのパンを頂いたのです。それはまず、あなたのためのパンですが、弟子たちが差し出した五つのパンでもあるのです。人々と分け合う時、数えきれない人々が食べて満たされるほどの豊かさを持つパンなのです。

近くに、いのちのパンを分け合える人がいないでしょうか。同じ屋根の下に暮らしながら、いのちのパンに触れたことのない人がいないでしょうか。聖体のパンはまだ分け合うことができなくとも、みことばのパンをその人と分け合えるのではないでしょうか。

イエスは弟子たちが「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(6・9)と言った元手を使って、数えきれない人をご自分のもとに引き寄せ、満たしてくださいました。ここにいる二百人がそれぞれ二人とみことばのパンを分け合ったら、四百人の人が同じパンに触れることになります。その積み重ねがあれば、私たちも五千人にイエスのパンを分け与える人なのではないでしょうか。


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‥次の説教は‥‥
年間第18主日
(ヨハネ6:24-35)
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ちょっとひとやすみ
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▼世の中にはサボる人間とサボらない人間がいると思う。それは「プロセスが大事だ」と考える人と「結果が出ればプロセスは問わない」と考える人がいるのと同じだ。私はサボる人間で、「結果オーライ」の人間である。
▼だから、サボらない人、プロセスを重視する人とは合わなかったりぶつかったりする。まぁでもぶつかることで磨かれたり危険な角が取れたりするのだから、違う考えの人は大切な人、出会うべき人だと思う。「そう思えるようになった」というのが正しいか。
▼もはや締め切りも目の前に迫り、一歩も引けなくなってようやく仕事に取り掛かる。もっと計画的に、少なくとも締め切りを気にしない時期に、依頼されていることを果たせばよいのに。分かってはいてもそうできないのがありのままの姿だ。
▼「釣り」と「畑仕事」の比較に似ているかもしれない。本業にしている方々には「そんなことはない」と言われるかもしれないが、「釣り」は一日中真面目に釣っていても釣れない時は釣れない。魚は食べたいときしか口を動かさないからだ。
▼ところが畑仕事は、やろうと思えば一日中することが見つかると思う。ゴーヤの苗を植えてもらい、日々成長する姿に驚くが、苗は「そろそろ帳尻を合わせるために成長するか」などという計算をしない。日々、寝起きする間に成長していく。だから畑仕事をする人は、休まず働いても楽しいのだと思う。
▼結果が大事なこともあり、過程が大切なこともある。両方に目を配る。それが本当の上に立つ人、多くの人に仕えるために選ばれた人の取るべき態度だ。

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今週の1枚
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第562回目。種はひとりでに成長し、花が咲き、いよいよ小さな実を付けた。

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