こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第12主日(マタイ10:26-33)人々を恐れてはならない

2008-06-22 | Weblog
当メルマガをご購読いただき、ありがとうございます。

(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/80622.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
08/06/22(No.363)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第12主日(マタイ10:26-33)人々を恐れてはならない
‥‥‥†‥‥‥‥

今週の福音朗読のための説教を考えながら、まず何から話し始めようかなと思ったときに、1つのことが浮かびました。それは、「人は自分の殻に閉じこもってしまうとなかなか抜け出せない」ということです。自分の殻に閉じこもり、恐れにとらえられていると、それを他の人が自由にしてあげることはなかなか難しいのです。恐れにとらえられている人を解放してくれる方は、実はイエス・キリストただ一人だということになります。

今言ったような体験を、私自身思い知らされる出来事がありました。その時のことが手帳にメモ書きしていたのではっきり思い出せますが、1月21日月曜日のことです。この日の晩、夜8時に五島の実家にいる次男から電話がありました。父の病状についてでした。父が肺ガンの告知を受けて、あと1年も持たないという連絡でした。私は電話で告げられたことを正直受け入れることはできず、呆然としてその日眠りに就いたのでした。

翌火曜日、私は教区の本部会議に出席するために朝8時15分の船に乗りました。いろんな理由で長崎に向かっている人がそこにはいました。船内にいる人々を見回しながら、私はこう思ったのです。「どうしてこの人たちには来年があって、自分の父には来年がないのだろうか」「なぜこの船に乗っている人はこれからも生きることができて、わたしの父は未来が奪われてしまうのだろうか」。

情けない話ですが、そんなことを思ったのです。その日の同じ時間、皆さんのうちだれかが一緒に船に乗っていたかも知れません。それでも私の心の中では、「なぜ?どうして?」という思いがあったのです。

その思いは私の心の中でどんどん大きくなり、たくさんの見知らぬ人が信号機の前で信号が変わるのを待っているときも、路面電車の中でも、バスに乗り継いだあとも、「なぜこの人たちは生きることができるの?」と思ったのです。ふつうでは考えられない心理状態ですが、手帳には当時のことが詳しく書き込まれていました。

今、私は船に乗っても「あの人はなぜ生きることができるの?」とは考えません。見知らぬ人の中にいても、人々が楽しそうにしている姿を見ても、当時のような思いはありません。殻に閉じこもっていた状態から解放されて、自由にしてもらっているからだと思います。心が閉ざされていたとき、自分を解放してくれる人はどこにもいないように思われました。ところがイエスは、繰り返し私の心に「恐れるな」と呼びかけて、私を恐れという「牢屋」から自由にしてくれたのだと思います。

人を不自由にしてしまう牢屋は、人によっていろいろかも知れません。理由のない被害を受けて、理由がないためになおさら許せない。こんな人は「怒り」という牢屋の中に閉じこめられているかも知れません。はっきりしないけれども圧力をかけられている。あるいはいつも付きまとわれている感じがする。そのために「疑い」という牢屋の中に閉じこめられているかも知れません。

だれもが、何かの理由で不自由にさせられることは起こりえます。その檻の中から私を解放してくれるのは、イエス・キリストお一人です。しかも、「わたしと一緒にいなさい」と呼びかけて、私たちを恐れから解放してくださるのです。

「イエスと一緒にいる」とはどういうことでしょうか。それは、イエスが立っている場所に、自分も立つことです。ではイエスはどこに立っていたのでしょうか。祈るために神殿に立ち、弱い立場の人々に声をかけ、走り寄って手を差し伸べるために立ち、聖書を朗読するために人々の前に立ったのです。

こうしたイエスの姿を思い起こすとき、私たちに求められていることがあると思います。それは、「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す」(10・32)ことです。祈るために教会に来て、イエスと一緒に祈るなら、私はイエスの仲間であると言い表していることになります。日曜日のミサで聖書を朗読するために朗読台に立つとき、また、弱い立場の人に声をかけ、手を差し伸べるとき、私たちは態度で、イエスの仲間であると言い表しているのです。

また、「兄弟を何回赦すべきでしょうか」と悩んでいるとき、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18・22)そう言って、イエスはそばにいてくださいます。ですからだれか身近な人を心から赦してあげるなら、私たちはイエスの仲間であると言い表していることになるのです。私たちが恐れという牢屋から自由になるチャンスは、身近なところにたくさんあって、それを教えてくれるのは聖書のみことばだと思うのです。

ふり返ってみると、人々が生きていて父が残り少ない運命にあったとき、私は自分自身と父のことをイエスに委ねることができてなかったのだと思います。イエスに命を委ねるしかないのに、委ねきるだけの信頼が持てず、恐れていたのだと思います。

ですが今は、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」という言葉をはっきり聞き取ることができます。体は今ここにないかも知れません。けれども、父がイエスから数えられていると信じることができるし、「恐れるな」というイエスの声は、私の中で日増しに強く聞こえているのです。

もしかしたら、「恐れるな」というイエスのみことばは、恐れや不安でがんじがらめになった経験があって初めて、理解できるようになるのかも知れません。もしも皆さんが、「こんなに辛いのに、神はいるのだろうか」と思い悩んでいるとしたら、きっとそれは、もうすぐイエスの声を聞くというところまで来ているのです。

「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない」(ルカ18・4)と言っている人よりも、神に苦情を持ちかけるくらいに思い悩んでいる人のほうが、「人々を恐れてはならない」と声をかけてくださるイエスの近くにいるのかも知れません。


‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼東京の「日本カトリック会館」での研修会のために上京した。2泊3日。木曜日の夜は集まった教区の広報担当者と懇親会の場を用意してもらった。同席した広報担当者の中で、中学生の時に洗礼を受けたという人の体験が非常に鮮烈で心を揺さぶられた。
▼この方は新聞配達中に盲腸になり、何と教会の敷地内でバッタリ倒れ、教会の婦人会に救急車を呼んでもらって、一命を取り留め、それから教会学校の補助員などを経験したりする中で教会との縁を感じて導かれていったそうである。本人も話していたことだが、教会の敷地内で倒れていなかったら洗礼を受けることはなかっただろうし、また教会の敷地内でなければ、救助が遅れて命に関わっていたかも知れない。
▼その方は「倒れたことが縁で洗礼を受けるなんて変な話ですよね」と言われていたが、私は真顔で「そんなことないですよ。パウロは馬から落ちて倒れてから回心したんですから」と言ったら、「ははは。わたしはパウロのようですね」と喜んでくださった。こんな巡り合わせ、神さま以外にだれがセッティングできるだろうか。
▼懇親会が終わり、私は横浜の信徒の方から声をかけてもらって、銀座のバーに連れていってもらった。前回カトリック新聞の諮問委員会の折には歌舞伎町の「エポペ」に連れていってくれた人である。生まれて初めてカクテルというものを飲み、おーこれはおいしい、と舌鼓を打ちながらひとときを楽しんだ。軽食も注文したはずだが、店を出るまでとうとう運ばれてくることはなかった。
▼バーテンダーの1人は、世界大会でも勝利したことのある人だと聞いた。世界屈指のバーテンダーの前で、コチコチになってオリジナルカクテルを飲んでいる中年を想像してほしい。もっと自分を磨いて、どんな場に出ても落ち着いて構えていられる人間に成長したいと、あの時強く思った。

‥‥‥†‥‥‥
今週のセンテンス
‥‥‥†‥‥‥
第36回目。今回の全国会議を切り盛りしてくれた、中央協議会で働く同級生司祭です。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
聖ペトロ聖パウロ使徒
(マタイ16:13-19)
‥‥‥†‥‥‥‥
===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年間第11主日(マタイ9:36-10:... | トップ | 聖ペトロ聖パウロ使徒(マタイ... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事