こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

王であるキリスト(マタイ25:31-46)最後の一人にまで心を寄せる王であるキリスト

2020-11-21 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/201122.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/11/22(No.1091)
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王であるキリスト(マタイ25:31-46)
最後の一人にまで心を寄せる王であるキリスト
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。チャンネル登録歓迎します。
https://youtu.be/S38boBKl7OA
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「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(25・40)この招きを耳にすることが、私たちにとってどれほど大切か。誰にでも分かっていることです。ですがこの招きにあずかることを最優先に人生を送っているかは別問題です。王の前に誰もが立たされます。その時を、平常心で迎えられる人生でありたいものです。

先週ボートで釣りに行ったら、塩焼きくらいの鯛を釣りました。キジハタ1匹、アラカブ1匹、塩焼きの鯛3匹(3枚と言うのかな)だったので、鍋料理の下ごしらえまでしてから引退した神父様に届けようと考えまして、賄いさんにも野菜や豆腐や準備してもらいました。

出かける頃には昼1時になっていたのですが、「起きてるかな?」と言う心配が出てきまして、賭けをしようという話で盛り上がりました。私のほうから「『昼寝している』に500円」と提案しますと、「同じほうに賭けようと思ったので、不成立ですね」と言われました。いざ訪ねてみますと、なんと神父様は額に汗をかきながら、せっせと庭いじりをしているではありませんか。お魚を預けながら、「どっちも外れたなぁ」というオチが付いたのでした。

さて今週は「王であるキリスト」の祭日で、今週で典礼の暦の一年が終わります。来週からは待降節になり、新しい典礼の暦が始まります。典礼暦の終わりに当たり、「この世の終わり、最後の審判」を考えるのは意味のあることだと思います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち」と王に招いていただける一年だったかを振り返り、また新たな一年をこの姿勢で過ごしていく決意を新たにしたいものです。

たとえで示される審判の成否を決める分かれ道は、「この最も小さい者の一人にしてくれたこと、してくれなかったこと」です。「最も小さい者」がどれくらい意識できているか。それが大きな分かれ道になります。具体的に考えることにしましょう。

中田神父が田平教会の日々の出来事を取り上げ、問題があれば解決するその場所は評議会です。評議会と連絡会が密に情報交換をすれば、ほぼ田平教会の家族全体のお世話ができる、とても立派な仕組みです。

しかしそれだけで安心してはいけません。お世話が行き渡っていない場所があるかも知れません。田平教会の信徒の皆さんが遠慮深くて、問題があっても評議会まで上がってきていないこともあるでしょう。それでも主任司祭個人に問題が上がってきていれば、取り上げてもらうことは可能です。それすら恐縮して声を出さずにいる場合も考えられます。

ここで今週のたとえが重なってきます。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。」(25・44)評議会で上がってきたことは、一つずつチェックをして一つ残らずこなした。だから漏れはないはずだと思って「いつお世話をしなかったでしょうか」と言いたくなります。けれども主任司祭の果たす務めとして、残念ながら漏れがあったのです。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」(25・45)

評議会と連絡会で話し合って、それでも漏れてしまう問題。それこそが、「最も小さい者」が抱えている問題なのだと思います。そして審判の席で主任司祭が問われるのは、この「最も小さい者にしなかったこと」なのです。

評議会で話し合って、内容を主任司祭が日曜日のミサでお知らせを入れ、連絡会に参加する地区委員さんにも各世帯に連絡を回してもらう。そこまですれば「組織」としてはやるだけのことはやったと言えるかも知れません。

ただ、「最も小さい者」に、この方法で連絡が届いたかは疑問が残ります。この方法で漏れた人にも小教区の歩みを共にしてもらいたい。そこであと一歩、主任司祭は踏み込んで行動しなければ、「わたしにしてくれなかった」と責められる可能性もあります。

主任司祭に当てはめてみましたが、これは決まった人だけの問題ではありません。王であるキリストは、「すべての民族を裁く」「すべての人に同じことを問う」と考えるべきです。一人ひとり、自分にとっての「最も小さい者」は誰なのか、考えてみましょう。かなり手を尽くしても漏れてしまう人。それは私にとって誰のことなのでしょうか。

私は病人訪問を月の第一金曜日に回っていますが、たくさん漏れている人がいるに違いありません。申し訳なく思っています。漏れている人たちにせめて、クリスマスプレゼントの一つでも届けられたらと思っています。みなさんも、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(25・34)と声をかけてもらえるように、王であるキリストの祭日を迎えたこの一週間、振り返る一週間といたしましょう。

一年前、11月24日、フランシスコ教皇様と私たちは、同じ場所で同じ時間を過ごし、王であるキリストを祝いました。今また教皇様と一緒に歩いた「すべてのいのちを守るため」この歩みを思い起こし、教皇様のこれからのご活躍と、私たちが変わらずすべてのいのちにいつくしみの目を注いで生きる決意を新たにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日(マルコ13:33-37)
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ちょっとひとやすみ
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▼思い切って髪を短くした。櫛で分けることができない。最近はやっているらしいから、髪を短くした。髪を短くしたらしたで、これからこの髪型を維持するためには毎月床屋に行かなければ。
▼短くして分かったが、横をバリカンで刈っているので横に目が行く。ハゲばかりに目が行っていたのが少しは緩和されるかも知れない。それはありがたい。もちろん、ハゲは変わらないので、この点については発毛剤育毛剤でなく、根本的な解消法が発明されるのを待ちたい。
▼床屋で面白いことがあった。私の前に一人客がいたが、その人は水戸黄門のようなヒゲだった。私がごま塩ヒゲ。私が出た後に、今度は立派なヒゲの人が!三連続ヒゲだ。何かに大当たりしたような気分だった。
▼私が言うことではないのかも知れないが、私が思い出した人はほぼ全員、その日のうちに連絡してくる。ちょっと前は造船所のある島の人だったが、今度はまちづくりの人をふと思い出したその日に、その人が司祭館を訪ねてきた。
▼「人を嗅ぎつける」というのか、「霊感がある」というのか、思い出したその日に、高い確率で連絡してくる。私がこの才能を自在に操れるならと思わないでもないが、そんなことを考えれば良くないことが起こりそうなので、この話はここで終わりとしよう。

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今週の1枚
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第698回目。ロードメジャーでお散歩。一周2650m。二周すれば十分運動する。
http://ss104313.stars.ne.jp/201122.jpg
ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
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今週の「笑える」
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「つちやたいふう」「まさか、『土屋太鳳』のこと?」
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† 神に感謝 †
コメント
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