こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第10主日マルコ(3:20-35)より大きな器に身を置いて神の望みを知る

2018-06-10 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/6/10(No.948)
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年間第10主日
(マルコ3:20-35)
より大きな器に身を置いて神の望みを知る
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一連の大きな祭日が終わって、年間の主日に移りました。今週年間第10主日に選ばれた福音朗読個所に、「これはイエスが語るような言葉だろうか」と思わせる箇所があります。私たちの器が小さくて、イエスの言葉を理解できない場合は、私たちの思い込みをあっさりと捨て、もっと大きな器を神に願い求める必要があります。

枢機卿様となられる大阪の前田万葉大司教様に、二人の補佐司教様が与えられることとなりました。酒井俊広被選司教様と、アベイヤ被選司教様です。私は酒井被選司教様とは十年来の付き合いがあります。新司祭のころから、当時精道学園の先生だった酒井神父様と、毎週のようにテニスをしていました。雨が降っても室内のテニスコートを探すくらいのテニス仲間でした。

また、私が太田尾教会の主任司祭となってからは、わざわざおいでくださって、ボートでの釣りに出かけたりもしていました。海の魚はお客さんには親切なのか、私よりも酒井神父様がよく釣っていたような記憶があります。

このたび司教に叙階されるということで、お祝いのメールを送りましたら、叙階式においでくださいとのお誘いを受けました。日程が調整つけば、喜んで見届けに行きたいと思います。またご本人から、黙想会の説教師を探すのに苦労しているなら、どうぞ私をお使いくださいと言っていただきました。黙想会の謝礼をどうするかという問題がありますが、考えてもいいなぁと思っています。

司教に選ばれる方々は、東京におられる教皇大使から、「あなたは補佐司教に司教に選ばれました」と伝達されるわけですが、どうやら酒井被選司教様にとっても全く予想だにしなかったことのようです。多くの方に挨拶として発送した手紙を読むと、司教職にふさわしくないことは誰よりも自分自身がよく知っている。けれどもこの小さな自分を使って神は大きなわざを示されるのだろう。そう思って引き受けたというようなことが書かれていました。

酒井被選司教様にとっても、神の計画を知るために、自分は器ではないと思っていても、神の望みが自分の思いを越えているときは、あっさりと自分の器を捨て、もっと大きな器を神に願い求める必要があったのでしょう。神さまが与えてくださるより大きな器に植え替えられて、より大きな仕事ができることを願っていますし、できれば叙階式を見届けて、被選司教様のために祈ってあげたいなと思いました。

福音朗読に戻りましょう。初めに私が「これはイエスが語るような言葉だろうか」と思ったのは次の箇所です。「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(3・27)

これは強盗のすることであって、イエスはまるで強盗の仕方を手ほどきしているかのように聞こえます。何回もこの朗読個所に当たったでしょうに、今の今まで疑問にも思いませんでした。皆さんもこの個所をミサの中で、自分で聖書を読む中で聞いたり目にしたりしたことでしょう。疑問に思わなかったでしょうか。

そこで、私たちの思い込みという器をいったん捨てて、より大きな器でものを考えるようにしましょう。「強い人を縛り上げて、家財道具を奪い取る」と言うのですが、このたとえを面と向かって話しているのは「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言っている人たちに対してです。

もし「強い人」が、「律法学者」のことだとしたらどうでしょう。イエスの眼に彼らは群衆を知識で抑圧している人々に見えていたかもしれません。すると、「家財道具」とは抑圧されている群衆のことで、律法学者を縛り上げなければ、取り戻すことができなかったのではないでしょうか。

おそらくイエスは律法学者に、「あなたたちの私への非難は全く当てはまらない。あなたたちが家財道具と思っている群衆を、私はあなたたちから取り上げる」と、警告を発していたのでしょう。イエスのたとえの中に、強い警告が込められていると考えれば、イエスがあのようなたとえをなされたことも理解できるのではないでしょうか。

朗読の後半についても、「イエスの母、兄弟」とは誰か、より大きな器に身を置いて考えさせようとしている、そう考えると理解できます。決して、家族を軽んじても構わないと言っているのではありません。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(3・34-35)神の御心を行う人は、人に対して果たすべき務めを決して見誤ることがないのです。

冒頭、酒井被選司教様と私の交友に触れましたが、酒井被選司教様は所属しているオプス・デイというグループの中でも中心的なメンバーでした。所属しているグループは家族のようなものです。しかし、さらに大きな器に身を置いて働くことを教皇様に願われて、決断をしたのです。オプス・デイというグループの中で没頭して働こうとしていた神父様に、イエスは「周りに座っている人々を見回してごらん。『ここにあなたの母、あなたの兄弟がいるよ』」と言われたのだと思います。

誰にとっても、自分の見ているものが正しく見えるものです。しかし神は、時としてより大きな器に私たちを移し替えて、違った見方を示し、ご自分に従うように招くのだと思います。私たちはその際、執拗に自分の見方にしがみつくべきではないのです。時にはあっさりと自分が今いる器を捨て、より大きな器を受け入れる必要があります。こうして神の国は広がっていくのです。

神は私たちの日常の関わりを変えてでも、より大きなものの見方を身につけさせ、宣教の担い手とすることがあります。神の招きに大きく心を開き、新しい景色の中で、神の使いやすい手足となっていきましょう。そのための恵みを、このミサの中で願うことにしましょう。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(マルコ4:26-34)
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ちょっとひとやすみ
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▼日本の教会が大きく動いているような気がする。大阪に二人の補佐司教が選ばれた。さいたま教区にも五年ぶりに教区長となられる司教が選ばれた。説教で述べた通り酒井被選司教は旧知の仲であるので、ぜひ叙階式に参列してお祝いを申し上げたい。
▼最近の動きに関連して、ちょっとした勘違いを経験した。ある小教区内の病院に長らく賄いとしてお世話してくれた信徒が入院していることを聞き、お見舞いに行くことにした。管轄の小教区があるのでそちらの主任司祭に伺いを立ててから行こうと思い、連絡を取った。
▼すると次のような返事であった。「私は新潟にいます。たまたま母親が司祭館の留守番に来ているので、よかったらお茶でもどうぞ。○○病院のお見舞いの人もよろしくお願いします。」「新潟にいます。」私は勘違いをしてしまった。最近新潟の司教が東京の大司教となられて移られたので、新潟の教区長は空席である。さては指名されて、下見に行ったのか?と思ったのだった。
▼後で話を聞けば笑い話だった。その神父様はとある全国会議で長崎教区担当司祭として新潟に来ていただけで、大それた話ではなかったのである。ただ、「それもありだなぁ」と思ったわけで、笑い話が現実になることもゼロではないと考えている。
▼確かに体制は整いつつある。しかしそれと日本での宣教が韓国のような勢いをつけるかということとは別の話だ。空気を入れてもしばらくすれば走ることができなくなるタイヤのように、どこか目に見えない穴があって、空気が抜け、何度試しても刷新されない。どこにその目に見えない穴があるのだろうか。

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今週の1枚
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第555回目。ゴーヤの苗を育ててほしいとひとこと言ったら立派な棚ができた。

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† 神に感謝 †
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