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こうじ神父
「今週のお説教」
07/10/14(No.321)
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年間第28主日
(ルカ17:11-19)
受けた恵みに感謝し、多くの人に告げ知らせましょう
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今日イエスが語りかけるメッセージははっきりしています。「わたしは恵みを受けた」と気づくのはこの世で小さな人と思われている人たちだということです。イエスがここで言う「小さな人」は、「謙虚な人」に近い言い方です。そしてあとで考えてみたいのですが、「わたしは恵みを受けた」と気づくためには、自分は取るに足りない者だと、どこかで感じている必要があるのです。
まず、神の恵みを敏感に感じ取って生きた人を何人か紹介しましょう。旧約聖書からは、一人のやもめの話を紹介することができます。彼女はイスラエル地方に干ばつが襲っていた時代、シドンのサレプタに住み、食べ物も飲み水も底をつき、一人息子とともに死ぬのを待っていました。
「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(列王記上17・12)。ところが神は、このやもめのもとにエリヤを遣わして、神は必ずあなたを助けてくださる、飢え死にすることはないと励まします。
イエスはこの物語を例に挙げてこう言いました。「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」(ルカ4・25-26)。彼女は干ばつの時に神の目に留まる何かを備えていました。それは、自分が小さな者であり、神の助けなしには決して生きていけないと知っていたということです。
新約の時代にいちばん目立って現れるのはマリアです。彼女は自分が小さな者であることを、ある意味世界中の誰よりもよく知っていました。彼女は次のような祈りを残しています。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」(ルカ1・47-48)。世界でいちばん、自分が小さな者であると考えたので、神はかえってマリアに目を留めてくださいました。
今日の出来事は10人の重い皮膚病を患っている人たちの癒しです。この中で1人サマリア人だった人だけが、自分が小さな者、取るに足りない者であることを自覚していたということです。彼はほかの9人が生まれつき与えられていたものを持ち合わせていませんでした。だからなおさら、イエスに信頼を置くしかないと、心に言い聞かせていたのです。
彼がどれだけ不利な立場に置かれていたかを考えてみましょう。彼はサマリア人でした。サマリア人とはつまり、「外国人」であり、異教の礼拝が混じっていると言ってユダヤ人の礼拝から閉め出されていたのです。
彼はその上にさらに、病を得て社会からも締め出されていました。残る9人と比較するとよく分かりますが、残りの人たちはイエスと同じユダヤ人であり、神が選んでくださった民族と見なされていました。仮に病気が治らなくても外国人扱いされたりはしません。またもしも病気が治れば、ユダヤ人の礼拝に再び参加することができるのです。サマリア人が、たとえ病気が治ってもユダヤ人の礼拝にあずかれないのとは大きな差があります。
こうした不利な立場をよく分かっていたので、彼は他の9人とは違って、それこそ必死に、置かれている状況から解放されたいと願っていたのではないでしょうか。サマリア人の彼は、イエスに頼るしかないと他の9人よりもはっきり自覚した上で「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(17・13)と言ったのだと思います。
ユダヤ人であった他の9人は1人のサマリア人とは違うという意識がきっとあったと思います。9人がイエスに「憐れんでください」と叫ぶとき、自分たちがあわれな民族とか、神から見捨てられているという気持ちはなかったと思います。重い病気だけれども、私たちは神に選ばれたユダヤ人だ。だから、憐れみを受け、救われて当然だ。そんな気持ちだったのではないでしょうか。
イエスは10人すべてに憐れみを注いで、重い皮膚病を治してくださったのですが、感謝しに来たのは、サマリア人だけでした。「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(17・18)。このサマリア人が私たちに教えていることは、救いの恵みはすべての人に注がれますが、恵みに気づく人と気づかない人が現れるということです。サマリア人は、自分は外国人で、礼拝も異なっている。救われるためには、イエスに頼るしか方法はないと、心の底から信じていたのです。イエスの他に頼るものが何もないと思っていたことで、民族や、礼拝の違いも超えて、神のあふれる愛に触れることができたと、サマリア人は皆の前で表明したのです。
私たちはもっと、今日のサマリア人に模範を仰ぐべきです。私たちの命は、イエス・キリストによってしか救ってもらえないと、今日のサマリア人のように固く心に決めましょう。サマリア人はイエスと違う民族でした。先祖にダビデ家の血筋も誰もいなかったことでしょう。
私たちも同じです。もし血筋で救いが決まるのであればイエスと同じユダヤの血筋の人は誰もいないのです。それでもイエスは今日のサマリア人に対してと同じように、日本にいる私たちにも注いでいます。10人のうち9人は恵みに気づきませんでした。日本人の中でも同じかも知れません。イエスに頼るしかないと気づいている人は、10人のうち1人しかいないかも知れない。
私たちがもしも、イエス・キリストに頼るしかない、この確信に自分を賭けているなら、もっと多くの人に、真剣にイエスを求めるチャンスを用意してあげる必要があります。働きかけて、「わたしも、イエスに頼るしかないと分かった」という人が1人でも2人でも現れるように、今週もまたイエスに送り出されて、社会の中で証しすることにしましょう。
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ちょっとひとやすみ
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▼前置きがほとんど無くて新企画に入ってしまうことになった。「今週の絵手紙」は100回掲載のうち3分の1ほどしか手書きのものはなかった。100回ということはほぼ2年続けたので、このへんで品を変えることにした。昔から英語は使えるようになりたいと思っていたが、今回からのコーナーを続けることで、自分自身英語の洗い直しをしようと思う。
▼第一回目は、コーナーそのものの説明も兼ねて、「ちょっとひとやすみ」を使って紹介することにした。ずっと勉強をしていく中で、毎週はっとさせられる何かを見つけて取り上げてみたいと思う。今回は、以前「絵手紙」コーナーで取り上げたカトリックの教え(2007年1月28日)を易しく説いている本の紹介。
▼この本は北米ではよく知られている本らしいが、意外なことにこうじ神父はその本の中にミスプリントを発見した。そこで私だけでは自信がないのである修道会の神父様に朝でなく夜でなく昼に尋ねたところ、どうやらミスプリントで間違いないとのこと。それを聞いたとき、内心「あー、まだまだ英語も鈍ってはいないなぁ」と思ったのだった。
▼ところが、ちょっと自慢げに思っていたらその神父様からこう言われた。「この本、懐かしいデース。私たちが小学校低学年のときに、一生懸命暗記した教科書デース」ということだった。ようやく理解できたのは小学校低学年の教科書だったのだ。どうりで難しい本は買っても読めず本棚に積みっぱなしになるわけだ。
▼久しぶりにその本を引っ張り出してみたら、この頁にミスプリントがあるということでドッグイヤーの印まで付けている。ところが、この2頁の中のどこが間違いなのか、あらためて見るとどうしても見つからない。1時間ほど目を皿のようにして読み返してみるが、それでも見つからなかった。そこで、みなさんにも披露して、どこにミスプリントがあるのか見つけてもらえればと思っている。
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今週のセンテンス
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第1回目。ミスを発見してアメリカ人神父様に見せたのに・・・違う頁だった?
詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。
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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(ルカ18:1-8)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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こうじ神父
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07/10/14(No.321)
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受けた恵みに感謝し、多くの人に告げ知らせましょう
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今日イエスが語りかけるメッセージははっきりしています。「わたしは恵みを受けた」と気づくのはこの世で小さな人と思われている人たちだということです。イエスがここで言う「小さな人」は、「謙虚な人」に近い言い方です。そしてあとで考えてみたいのですが、「わたしは恵みを受けた」と気づくためには、自分は取るに足りない者だと、どこかで感じている必要があるのです。
まず、神の恵みを敏感に感じ取って生きた人を何人か紹介しましょう。旧約聖書からは、一人のやもめの話を紹介することができます。彼女はイスラエル地方に干ばつが襲っていた時代、シドンのサレプタに住み、食べ物も飲み水も底をつき、一人息子とともに死ぬのを待っていました。
「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(列王記上17・12)。ところが神は、このやもめのもとにエリヤを遣わして、神は必ずあなたを助けてくださる、飢え死にすることはないと励まします。
イエスはこの物語を例に挙げてこう言いました。「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた」(ルカ4・25-26)。彼女は干ばつの時に神の目に留まる何かを備えていました。それは、自分が小さな者であり、神の助けなしには決して生きていけないと知っていたということです。
新約の時代にいちばん目立って現れるのはマリアです。彼女は自分が小さな者であることを、ある意味世界中の誰よりもよく知っていました。彼女は次のような祈りを残しています。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」(ルカ1・47-48)。世界でいちばん、自分が小さな者であると考えたので、神はかえってマリアに目を留めてくださいました。
今日の出来事は10人の重い皮膚病を患っている人たちの癒しです。この中で1人サマリア人だった人だけが、自分が小さな者、取るに足りない者であることを自覚していたということです。彼はほかの9人が生まれつき与えられていたものを持ち合わせていませんでした。だからなおさら、イエスに信頼を置くしかないと、心に言い聞かせていたのです。
彼がどれだけ不利な立場に置かれていたかを考えてみましょう。彼はサマリア人でした。サマリア人とはつまり、「外国人」であり、異教の礼拝が混じっていると言ってユダヤ人の礼拝から閉め出されていたのです。
彼はその上にさらに、病を得て社会からも締め出されていました。残る9人と比較するとよく分かりますが、残りの人たちはイエスと同じユダヤ人であり、神が選んでくださった民族と見なされていました。仮に病気が治らなくても外国人扱いされたりはしません。またもしも病気が治れば、ユダヤ人の礼拝に再び参加することができるのです。サマリア人が、たとえ病気が治ってもユダヤ人の礼拝にあずかれないのとは大きな差があります。
こうした不利な立場をよく分かっていたので、彼は他の9人とは違って、それこそ必死に、置かれている状況から解放されたいと願っていたのではないでしょうか。サマリア人の彼は、イエスに頼るしかないと他の9人よりもはっきり自覚した上で「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(17・13)と言ったのだと思います。
ユダヤ人であった他の9人は1人のサマリア人とは違うという意識がきっとあったと思います。9人がイエスに「憐れんでください」と叫ぶとき、自分たちがあわれな民族とか、神から見捨てられているという気持ちはなかったと思います。重い病気だけれども、私たちは神に選ばれたユダヤ人だ。だから、憐れみを受け、救われて当然だ。そんな気持ちだったのではないでしょうか。
イエスは10人すべてに憐れみを注いで、重い皮膚病を治してくださったのですが、感謝しに来たのは、サマリア人だけでした。「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(17・18)。このサマリア人が私たちに教えていることは、救いの恵みはすべての人に注がれますが、恵みに気づく人と気づかない人が現れるということです。サマリア人は、自分は外国人で、礼拝も異なっている。救われるためには、イエスに頼るしか方法はないと、心の底から信じていたのです。イエスの他に頼るものが何もないと思っていたことで、民族や、礼拝の違いも超えて、神のあふれる愛に触れることができたと、サマリア人は皆の前で表明したのです。
私たちはもっと、今日のサマリア人に模範を仰ぐべきです。私たちの命は、イエス・キリストによってしか救ってもらえないと、今日のサマリア人のように固く心に決めましょう。サマリア人はイエスと違う民族でした。先祖にダビデ家の血筋も誰もいなかったことでしょう。
私たちも同じです。もし血筋で救いが決まるのであればイエスと同じユダヤの血筋の人は誰もいないのです。それでもイエスは今日のサマリア人に対してと同じように、日本にいる私たちにも注いでいます。10人のうち9人は恵みに気づきませんでした。日本人の中でも同じかも知れません。イエスに頼るしかないと気づいている人は、10人のうち1人しかいないかも知れない。
私たちがもしも、イエス・キリストに頼るしかない、この確信に自分を賭けているなら、もっと多くの人に、真剣にイエスを求めるチャンスを用意してあげる必要があります。働きかけて、「わたしも、イエスに頼るしかないと分かった」という人が1人でも2人でも現れるように、今週もまたイエスに送り出されて、社会の中で証しすることにしましょう。
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ちょっとひとやすみ
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▼前置きがほとんど無くて新企画に入ってしまうことになった。「今週の絵手紙」は100回掲載のうち3分の1ほどしか手書きのものはなかった。100回ということはほぼ2年続けたので、このへんで品を変えることにした。昔から英語は使えるようになりたいと思っていたが、今回からのコーナーを続けることで、自分自身英語の洗い直しをしようと思う。
▼第一回目は、コーナーそのものの説明も兼ねて、「ちょっとひとやすみ」を使って紹介することにした。ずっと勉強をしていく中で、毎週はっとさせられる何かを見つけて取り上げてみたいと思う。今回は、以前「絵手紙」コーナーで取り上げたカトリックの教え(2007年1月28日)を易しく説いている本の紹介。
▼この本は北米ではよく知られている本らしいが、意外なことにこうじ神父はその本の中にミスプリントを発見した。そこで私だけでは自信がないのである修道会の神父様に朝でなく夜でなく昼に尋ねたところ、どうやらミスプリントで間違いないとのこと。それを聞いたとき、内心「あー、まだまだ英語も鈍ってはいないなぁ」と思ったのだった。
▼ところが、ちょっと自慢げに思っていたらその神父様からこう言われた。「この本、懐かしいデース。私たちが小学校低学年のときに、一生懸命暗記した教科書デース」ということだった。ようやく理解できたのは小学校低学年の教科書だったのだ。どうりで難しい本は買っても読めず本棚に積みっぱなしになるわけだ。
▼久しぶりにその本を引っ張り出してみたら、この頁にミスプリントがあるということでドッグイヤーの印まで付けている。ところが、この2頁の中のどこが間違いなのか、あらためて見るとどうしても見つからない。1時間ほど目を皿のようにして読み返してみるが、それでも見つからなかった。そこで、みなさんにも披露して、どこにミスプリントがあるのか見つけてもらえればと思っている。
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