こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第11主日(ルカ7:36-8:3)イエスに愛されている、それだけで十分です

2007-06-17 | Weblog
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http://hanashi-no-mori.news-site.net/voice/70617.mp3

(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/06/17(No.303)
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年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
イエスに愛されている、それだけで十分です
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教区司祭の黙想会に参加してきました。黙想指導をしてくださったのは教皇庁の移住移動者司牧評議会の議長を務めていた濱尾枢機卿さまでした。説教の中で、ミサについて常々思っていることと、移住移動者への配慮が本当はとても大切なことだということがよく伝わってきました。

枢機卿さまがミサについていつも思っていることは、ミサは、「全世界の平和と救いのために捧げられている」ので、どんなに参加する人が少なくても、たとえ司祭一人でミサを捧げても、「全世界の平和と救いのために捧げられている」ことを意識してほしいというものでした。

中田神父は、枢機卿さまのこの指摘を考えながら、パンとぶどう酒を聖別してキリストのおんからだとおん血に変化させる聖変化の言葉の中に、全世界のためという意味合いが込められていると気づきました。このように唱えます。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である」。

「あなたがたと多くの人のために流されて」。これは枢機卿さまが指摘した「全世界の平和と救いのため」に通じる部分だと思います。私たちの教会で、島民皆がミサに参加しても人数は限られています。100人にも満たなくても(数百人でも)、今ここで捧げられているミサは、「全世界の平和と救い」に貢献しているのです。ミサを捧げている司祭も、ミサにいっしょに参加している信徒の皆さんも、今この時に、「全世界の平和と救いのために」貢献しているのです。これはすばらしい指摘だと思いました。

次に、枢機卿さまが長く関わってきた移住移動者への配慮について印象に残ったことを分かち合います。この任務は、教皇ヨハネパウロ2世から依頼されたものでしたが、教皇さまはその時に「移住移動者への配慮は大切な任務です。なぜなら、ヨセフとマリア、幼子イエスの聖家族もヘロデに命を狙われてエジプトに避難していたとき移住者(避難民)だったのです」と励まされたそうです。

そう考えれば、たしかに移住移動者への配慮は特別な使命であることが分かります。政治的な理由や、民族の違いや宗教などである人は命を狙われ、亡命しています。この人たちは、かつて命を狙われてエジプトへ避難した聖家族なのです。今もたくさんの人々が命の危険を感じて国を追われています。それはつまり、エジプトへ避難した幼子イエスがたくさんいるということであり、心を込めてお世話してあげる必要があるということなのです。今年も、いろんなヒントをいただいて帰ることができました。

今週の福音からは、一点に絞って話したいと思います。今週は、一人の女性がイエスに示した「愛の大きさ」(7・47)について考えてみました。一人の罪深い女性は、あふれる想いを愛情に変えてイエスに奉仕しました。ところが食事に招いたファリサイ派の人には彼女の態度が理解できず、常識外れの行動に思えました。ところがイエスには「大きな愛の証し」と感じられたのでした。

本来、まことの愛は、報いを当てにしないものだと思います。単なる貸し借りではなく、また「愛してくれる人を愛する」(ルカ6・32)というものでもなく、自分を捨てて相手を喜ばせることです。イエスに近づいた女性には、この「報いを期待しない姿」「自分を捨てて相手を喜ばせる姿」がじゅうぶん表れていました。

イエスがファリサイ派の人のような態度に出ようと思えば、次のような言葉を女性にかけたかも知れません。「何をしてほしいのか」(ルカ18・41)。こんなことをするからには、きっと何かを当てにしているに違いない。大事な人と食事をしているときにこの人はなぜ私を煩わせるのか。イエスがファリサイ派の人と同種の人物であれば、きっとこんなことを思ったことでしょう。

実際のイエスはまことの愛にとても敏感な方でした。この女性は自分がどのような扱いをされるか、そんなことさえも計算せずに、自分にできるお世話でみずからをイエスに与え尽くしたのです。彼女の取った行動がイエスやイエスを招待した人々に理解されるかどうか、それさえ当てはありませんでした。まったく何も当てにしないで、ありのままの自分をイエスにさらけ出したのです。

何も当てにしない彼女の行動を、イエスは受け止めてくださいました。彼女はゆるされるにふさわしい。過去に何があったか、イエスはもはや気にしません。彼女の真実の愛に、イエスもまた愛をもって応え、いっさいの罪をゆるしてくださったのです。

イエスに理解され、愛されていると知った人は、何も当てにしません。食事の席に飛び込んでいった一人の女性がそうでしたし、何人かの婦人たちが立ち上がり、自分たちの持ち物を出し合って、一行に奉仕します(8・3)。彼女たちは、イエスに愛されていること以外何も要らないのです。

私たちは、仕事ぶりを理解してもらいたいとか、この世に期待していることがあまりにもたくさんあります。イエスに愛されていること、それさえあれば十分です。この世の評価を追いかけず、イエスが必ず報いてくださることを確信して、日々の務めを着実に果たしていきたいものです。


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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会とは、あらためて指摘を受けることがこんなに大切なことなのかということを学ぶ場なのかも知れない。「全世界の平和と救いのためになりますように」とどれだけ唱えてきたか分からないのに、指摘を受けるとなるほど、とうなずくことになる。現場をいったん離れてみると、指摘に素直になれるということだろうか。
▼黙想会期間中にまじめな本を読んでいた。「沈黙を聴く」というタイトルで、市販されてはいないが示唆に富む内容だった。人は心から溢れるものを詩に書き留めたり絵にしたりして表現するわけだが、この溢れ出る源となっている心は、「沈黙」の状態であるときもっとも豊かなのだと知った。
▼この話を読んでいる人は疑問に思うかも知れない。なぜ沈黙の心から、音楽や文学や絵画が溢れ出てくるのか。実は私もまだ答えにたどり着いていないのだが、「沈黙」の中に自分を置かなければ、本当は何も聞こえてこないということが何となく分かったのである。そしてまた、いかにふだんの生活で「沈黙を聴く」ことができていないかということにも気付かされた。
▼また、現場に戻ってきた。現場に戻ってから最初に私の心に入ってきた「言葉」は、「高知県は四国だったんですか」だった。せっかく黙想会を終えてきたのだから、せめて「そうそう。高知県は四国にあるんだよ」くらいは言ってあげようと思う。「高知が四国になければ、いったいどこにあるんじゃ」とは、たとえ喉まで出かかっても飲み込むことにしよう。

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こうじ神父絵手紙
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第84回目。黙想会後、横浜から訪ねてきた人とオフラインミーティングの一コマ。

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
洗礼者聖ヨハネの誕生
(ルカ1:57-66,80)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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