こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

キリストの聖体(ルカ9:11b-17)二千年間与え続けるという奇跡

2007-06-10 | Weblog
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こうじ神父
「今週のお説教」
07/06/10(No.302)
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キリストの聖体
(ルカ9:11b-17)
二千年間与え続けるという奇跡
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今日は、キリストの聖体をたたえる日曜日です。聖体にとどまっておられるイエスは、信じるすべての人を養い育てます。この実感を、今日のミサの中で味わうことにいたしましょう。

まず、朗読されたルカ福音書9章は、「五千人に食べ物を与える」という奇跡の物語でした。この、「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、イエスの物語を書き残した四つの書物、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ福音書すべてで取り扱われています。まずはこの点から考えていきましょう。

すべての福音記者がこの奇跡を取り上げているということには、どんな意味が含まれているのでしょうか。私は、2つの意味が込められていると思っています。1つは、「五千人に食べ物を与える」という奇跡が、間違いなく起こった、ということです。四つの福音書は、どの物語を取り入れて、どの物語を外すか、それぞれに任されているわけですが、その中で今回の「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、だれも外すことなく採用しました。これはつまり、出来事は真実であるということの確かな証明になるのではないでしょうか。

私は、もう1つ、この奇跡物語が伝えようとしていることがあると思います。それは、この奇跡物語を後世に語り継いで欲しいという強い思いです。

過去に、五千人に食べ物を与える奇跡が起こったということは、それはそれですばらしいことだと思います。けれども、もしも過去に起こったことそれだけの意味であれば、単なる昔話に過ぎません。奇跡の物語ですから昔話と言い切っては問題がありますが、昔そういう奇跡が起こった、ということだけを伝えるのでは、記憶を引き継ぐことだけになってしまいます。

私は、福音記者がそろってこの奇跡物語を残し、後世に語り継いで欲しいと願った理由は別のところにあると思っています。それは、イエスがのちの時代にも信じる人々に食物を与え続けているということを知ってもらうために、この物語を書き残したということです。つまり、イエスはこの奇跡物語で起きているような奇跡を、今も続けている。私たちには希望のもてないような場に、イエスは奇跡を起こして食物を与え続けていると言いたいのではないでしょうか。

かつてイエスは、パンを増やして五千人に食べさせてくださいました。今イエスは、ご自身を多くの人の食べ物として用意してくださいます。奇跡物語の中のパンは、普通のパンが増えたに過ぎません。けれども今私たちが集まって祝っているミサの中では、集まった参加者に、ただのパンではなくてイエス・キリストが与えられているのです。また、日曜日に準備されたキリストの御体は、平日にミサに集まるすべての人にも与えられます。

さらに、遠く離れた人々、それは病院に入院しているために遠く離れている人とか、信仰の面で遠く離れている人にも、もう一度聖体を拝領できるように準備をしてから与えられていきます。日曜日に集まった人たちの前で準備されたキリストの御体が、平日の人々、病気の人々、信仰を遠ざかっていた人々にまで与えられていくこと。これもまた、かつて五千人にイエスが食べ物を与えたのに劣らない、まことの奇跡なのではないでしょうか。

先週の水曜日、私は2つの病院を訪ねて御聖体を運んで行きました。1人は、成人病センターに入院していました。1人は、整形外科に入院していました。病院が違えば症状も違います。一方は病気、他方は怪我と言ってもよいでしょう。その2人に聖体拝領をさせる予定でしたが、先に訪ねた成人病センターで御聖体の器を開いたとき、1枚しか御聖体が入っていませんでした。どうしようかなと考えた末に、御聖体を半分にして、2人で分け合うことにしました。

私は、過ぎた一週間の中ではこの出来事が大変印象深く心に残りました。状況はまさに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(9・13)というものでした。あと1人病人がいる、なのに御聖体は1枚しかない。どうしようもない中で、御聖体を半分に分割して与えようと考えたのは、私と言うよりは、イエスの指示でした。イエスが、成人病センターの人にも整形外科の人にも食べ物となってくださる。どのようにしてなのかはその時まで気がつきませんでしたが、イエスがご自分で2人の病人に食べ物となる方法を示してくださったのだと思っています。イエスが「みな、これを取って食べなさい」とおっしゃって、どんな場面でもご自身を与え続けてくださるのです。

今日私たちは、キリストの聖体の祭日を迎え、「五千人に食べ物を与える」奇跡物語を朗読しました。この朗読が語り継がれる中で、イエスは今も、私たちに食べ物を与え続けておられることを学びました。日曜日にこうしてミサに集まるたびに、聖書の言葉と聖体拝領で私たちに豊かに食べ物を与え続けているという、このイエスのみわざを、十分味わって生活に戻っていくことにしましょう。

最後に、最近新しく祈祷書に挟み込まれました祈りを思い出して結びとしたいと思います。島本大司教がお作りになった「宣教する教会をめざして」という祈りです。この祈りの最後にこう書かれています。「私たちが、御子の聖体に養われ、主の平和のうちにこの世界へとつかわされ、また祭壇へと帰っていく、生き生きとした信仰生活を送ることができますように」。

生きた信仰生活の力の源は、主の聖体に養われ、主の祭壇に帰っていくことにあります。今もご自分を与え続けておられるイエスに日曜日ごとに出会い、イエスが今も働き続けておられることを告げ知らせに行きましょう。


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ちょっとひとやすみ
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▼いつか書いたかも知れないが、世の中に「絶対」ということはない。一度も失敗したことがないから、一度も失敗しないと言い切れない。「9日の10時に納骨」と記憶していたので、共同墓地で10時に待っていたけれども、11時になっても本人たちが来ない。
▼どうもおかしいなあと思って司祭館に戻り、ホワイトボードを見たらちゃんと9日10時納骨と書いてある。やっぱり今日だよなー、そう思うけれども本人たちが来ないので電話してみたら、「16日の10時で約束しております。どうかしましたか」と言われた。「そうかー。来週だったんだね。今週とばかり思って、間違ってたよ」そういうのが精いっぱい。本当はがっくり力が抜けて、何かに当たりたい気分だった。
▼ある人から、「スケジュール帳、ちゃんと活用してるの?」と言われ、自分としては結構書き込んでいるんだけどねと答えたけれども、どうも致命的な欠陥があるような気がしてきた。別のある人のスケジュール帳の使い方と比べると、まるでなってないと感じたからだ。手帳をこまめに記入するその人は、「すぐに書く」ということが決定的に違っていた。
▼そう言われれば、自分は思い出したときに書いていた。思い出したときでは、記憶違いもあるに違いない。すぐに書けば正確に記録できるのは当然である。そうだ。手帳というのは、「手に書く」代わりの品物なのだから、すぐに書かなければ効果は上がらないのだ。そんなことも気が付かなかったのか。その程度で自分の仕事を果たしてきたと思い込んでいたのだろうか。

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こうじ神父絵手紙
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第83回目。司祭黙想会に行ってきます。これ、黙想会の必需品?

詳細は、ホームページ:http://hanashi-no-mori.news-site.net/にて。

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‥次の説教は‥‥
年間第11主日
(ルカ7:36-8:3)
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
コメント
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