常陸太田市には、徳川光圀の隠居所である西山荘がある。大日本史の編纂は、ここで始められたという。
竹藪というか、孟宗竹の竹林の中に、控え目な門がある。
滑りやすい坂を登れば、こちらが正式の玄関。
しかし、光圀は意外に気さくな人で、こちらを裏口として主に利用したらしい。
茅葺屋根など、造りは田舎びているが、非常に洗練された(それどころか、お高くとまった)感じを受けるのは、私だけなのだろうか。
光圀という人は、信州から蕎麦の種を取り寄せて、この辺りの住人に栽培させた、という言い伝えがあり蕎麦にゆかりが深い。おそらく、日本の様々な地方の産物について知識があったのであろう。
性格として、江戸の格式ばった屋敷に、ちんまりとしているよりは、こうところで気楽にやるほうがはるかに好みだったのではないだろうか。若い頃は女狂いだったというし、光圀という人は学問好きというよりは、快楽的な人物だったのではなどと、勝手に想像したりする。
竹藪というか、孟宗竹の竹林の中に、控え目な門がある。
滑りやすい坂を登れば、こちらが正式の玄関。
しかし、光圀は意外に気さくな人で、こちらを裏口として主に利用したらしい。
茅葺屋根など、造りは田舎びているが、非常に洗練された(それどころか、お高くとまった)感じを受けるのは、私だけなのだろうか。
光圀という人は、信州から蕎麦の種を取り寄せて、この辺りの住人に栽培させた、という言い伝えがあり蕎麦にゆかりが深い。おそらく、日本の様々な地方の産物について知識があったのであろう。
性格として、江戸の格式ばった屋敷に、ちんまりとしているよりは、こうところで気楽にやるほうがはるかに好みだったのではないだろうか。若い頃は女狂いだったというし、光圀という人は学問好きというよりは、快楽的な人物だったのではなどと、勝手に想像したりする。