孫の手料理で古希の祝い
////気長に見守る////
私は、夫の誕生日になんと長男を産んでプレゼントした(誕生日が同じ)。先日、夫の古希の祝いを長男の誕生日祝いと合わせてやった。
その日、料理好きの四年生になる孫が、手料理を作るとワクワク。すでに何日も前から、自分で作成している料理ノートに、レシピを考え、工夫して書いてきた。学校の給食に出た温野菜サラダが美味しかったので、それを1品、ロールキャベツに今回は鶏のもも肉を入れて巻くと言う。パパの好きなヒレ肉のステーキのおろしポン酢かけ。この3品に果物のデザートをつけるというメニュー。
さて、わが家に到着すると早速メモ用紙片手に買物に出かけて行く。忙しい両親は家ではめったに料理作りに付き合うことがなく(わが家ではこれまでも度々やっている)、きょう初めてママも同行、娘の今まで見たことのない姿にびっくり。
なにしろ四年の娘と一年の息子二人がスーパーで買物。大人たちは側に来ないでと言うので、遠くで見守ることに。なかなかやります。売り場や、どの材料が適当かなど、店の人にはきはき尋ねている。親切に対応してくれていて好感。全部買えたら、じいじに見せている。アメリカ産のヒレ肉は買わない。その理由を説明して交換。
帰ってきて台所に立つと、エプロンをかけ、手をきれいに洗っている。なかなかさまになっている。わが家も夫がコック長なので、もっぱら孫の料理作りを見守っているのも夫の役目。包丁や火の使い方は、すでに教えている。とは言えやはり目は離さないが、手は出さない。笑顔の孫の側で「あっち行って」と言われながら時々のぞいては「上手やなあ」「できるの楽しみや」と声をかけている。
こんな姿に、ママはまたまたびっくり。家ではどうしても危ないとか、手間がかかるとかでやらせることは少ない。
ああ、いい匂い。煮込みロールキャベツのだしは昆布とかつおでとっているので、これがまたいい。「あーお腹すいたでえ」。大人たちはできあがるまで気長に待つ。その後、弟を呼んで何やら打ち合わせをしている。弟にも出番をと、メイドを命じて、接待の仕方をメモ書きして練習させている。
いよいよ配膳ができて席に着くと、二人が「お待たせしました」とパーティーは始まった。メイドが恥ずかしそうに「きょうはまんぷくレストランにようこそ。本日のメニューは…」と説明。「飲み物の注文やごはんの量を聞きますからよろしく」
そしてじいじへの祝いの手紙が読まれ、手作りプレゼント(金、銀、土?の3つのメダルに、マスクのひもをつないだひもがついている)を手渡されて、やっと乾杯。
「まほちゃん、おいしいなあ」と口々に言われて満面の笑み。自分が人の役に立っている。私に出番がある。その喜びは、何にもかえがたい。子どもがすくっと大きくなる時を目の当たりにする思いだった。
////手間ひまかけてこそ////
今回は、わが家の孫自慢みたいになったが、こういういとなみは子どもを成長させる、と実感。
誰かのために料理を作る。料理本を見たりテレビの料理番組を見たりしてメニューを考え、作り方をノートに書く。買物に行く。社会にふれる貴重な機会だ。物の流通なども知る。
そして、料理を作る。段取り能力や手先の器用さも要求される。いろんな工夫も求められる。包丁や火などの危険を回避するすべも学ぶ。まさしく生きるすべをわがものにしていくプロセスそのものだ。家族の喜ぶ顔を思いうかべ場を演出する。弟の出番も作ってやる。プレゼントも買ったものではなく、工夫した手作りだ。これも値打ちものだ。
一年の弟は、習いたての文字を使って、じいじに手紙を書く。相手の胸に言葉が届く。文字が生きていることを実感する。
そして、みんなに喜んでもらえて、みんなの幸せな顔、心もお腹も満腹になってかけがえのない一日が創造される。
買って捨てる便利な社会だからこそ、こういう手間ひまかけたいとなみが一層大切であり、人が育つということはこういうことではないかと改めて思った。ばあばの話でごめんあそばせ。
(とさ・いくこ和歌山大学講師)