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内灘闘争、「大阪万博で人手がとられ、震災被害改修が進まない」と氷見民宿の女将

2024年09月12日 | 丸ちゃんの私的時間

9月7日(土)

この夏の休みはどこにも行かなかったこと、そして今回せっかくの機会を与えられたこともあって、今日明日明後日と有休を1日追加して3連休とし、立山に行くことにした。

とりあえず今日は北陸道を通って富山県の氷見に行くのだが、石川県を通るので、かつて米軍基地反対闘争の象徴的闘いが行われた内灘闘争の展示館を訪れることにした。内灘闘争については、言葉は知っていたが、その中身までは知らなかったからだ。

北陸道金沢西インターで降りて北上し、左手に日本海が、そして広い砂浜も見えてきた。内灘町民俗資料館・風巨大と砂の館に到着する。館内に入ってまず目にしたのが粟ヶ崎遊園という北陸の宝塚と謳われた娯楽巨大施設の紹介だ。大正14年に60,000坪の広大な敷地の中に、大劇場や料亭、食堂、旅館、動物園、野球場、スキー場などが展開され、少女歌劇団によるレビューも行われていた日本有数の複合娯楽施設がここにあった。全く知らなかった。

この奥が内灘闘争の展示だ。内灘闘争は砂丘を舞台にした戦後初の基地反対闘争であった。1952年在日米軍は朝鮮戦争を背景に日本での砲弾試射場の提供を要求し、政府は内灘を候補地とした。地図で見ると内灘町(当時内灘村)は河北潟と日本海に囲まれた細長い砂丘の村で、村民は主に漁業などに従事していたが、試射場ができると漁業ができなくなり生活が成り立たなくなるため、村民は村を挙げ反対運動に立ち上がり、この闘いは全国的な基地反対闘争へと拡大していった。しかし翌年に試射が始まり政府は試射場の永久使用方針を決定。これに反対する陳情や座り込みが繰り返されたが、村内の分裂、試射の強行などによって、反対運動は次第に収まり村は条件付きで試射場の使用を認めることとなった。試射場は1957年3月に正式に返還され、村は静けさを取り戻したがこの一連の反対運動は、その後の全国の基地反対闘争に大きな影響与えていった。

見学を終えて試射場であった砂丘の現場に行くと、米軍試射場射撃指揮所の建物が砂に埋もれるようにして今も残っていた。2階に上がって砂丘から日本海を望むと手前の砂浜に家族連れや若者たちが遊ぶ姿が見える。平和な光景だが、50年前この地で繰り広げられた米軍基地反対闘争の背景にあるものは今現在も何ら変わっていない。

ところで内灘町は先の能登半島地震でも大きな被害を受けている。集落が液状化に襲われ道路や民家が数多く被害を受けた。震災直後のテレビなどで紹介された液状化被害の様子はここ内灘の様子だ。

さて、内灘町を抜けて一路、能登半島の反対側、富山湾川の氷見の宿を目指していく。ネットの口コミで料理が評判の民宿に宿を取るが、氷見の街も震災被害を受け、この民宿を含め多くの宿泊施設が被害を受けている。温泉の露天風呂を楽しみにしてきたが、設備が壊れて使えない。

食事の時に女将さんに話を聞いた。能登半島地震で外壁が破損し現在修理中。また各部屋もかなり傷んだそうで、今夜泊めてもらう部屋が一番先に改修を終えた部屋だそうだ。確かに壁も畳も新しくきれいなものだった。全館の改修工事は未だ途中にあり修理中の部屋もいくつも見受けられる。業者に改修工事の早期終了を依頼しているが「大阪の万博に人手をとられて、全くの人手不足で困っている」と言われたそうだ。大阪万博開催の罪深さを感じた。

天気が良ければ部屋から窓を開けると、富山湾を挟んだはるか向こうに明日登る予定の立山連山が見えるはずなのだが今日は見えず。天気予報では明日も曇りから雨の予報。さて山には登れるのか・・・。

 

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