ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

言葉と精神

2005-07-03 | 考えたこと
浅田次郎氏は

「言葉がなくなるということは、
 その土地の精神が 消えていくということだと
 思っています。」

と語る。

(『青春と読書』6月号、p40)


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物を捨てるのが 不得手な私。

ペリエのビンも 緑色だから、なんていう理由で
捨てられない。

こうして ガラクタが増えていく。

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浅田氏は 東京生まれ(1951年)。

著書『天切り松 闇がたり』の主人公の松蔵は
'東京弁’でしゃべるらしい。

そして 氏は 昔から使われていた東京の言葉に
こだわっているのだと言う。



「言葉というものは、
 そこにすんでいた人たちが 
 何百年にもわたって培ってきたもの。

 つまり、
 人が生きてきた風土そのものなんですよ。

 それが、どんどん消えていけば、
 当然、そこに生きていた人たちの精神まで
 なくなっていく。

 だから僕は、こだわる。」



「たとえば、
 盛岡で生まれて育った人が 
 久しぶりに 故郷に帰ってきて、
 昔、自分たちが使っていた言葉が 通用しなかったら 
 寂しいでしょう。」



氏が なぜ 盛岡を例として上げたのかは 
正確ではないかもしれないが、

人が変わっても 使う言葉が変わっても
山や川が 変わらずにある、
’ふるさと’の代表のようなところ、
ということか。



東京は そうした景色まで 
変わってしまうのだという。

だから 『天切り松』で
東京の言葉に しつこくこだわるのだ、と。



「ここで ふんばらないと、
 東京弁は なくなってしまう。

 つまり、
 東京弁がなくなることで
 江戸っ子の精神まで 喪失するという悲しみを
 この本に詰め込んでいる」と。


さらに、
「仕事のときは 標準語ですね。

 同窓会のときは 生粋の東京弁ですよ。」と。



イントネーションには とことん疎い私なので
標準語と 東京弁がどう違うのかは 
よくわからないが
使う言葉が やはり 独特の言い回しだったり
するのだろうか。

江戸っ子は ‘生粋の東京弁’に
劣等感をもつのだろうか。

そして 東京弁が消えてなくなるという危機感を
本当にもっているのだろうか。



方言について 劣等感を持つ私。

それでも 故郷を離れて 日々を過ごして
今では 懐かしくて 好ましいものに思える。

自分を含めて 若い(&若めの)人達が
だんだん方言を使わなくなっていくのを
悲しい思いで 見つめていることがある。

会津の従兄弟達だって
祖母や叔母たちが使っていた言葉を
あまり使わなくなってきた。

その子供たちも きっとそうだろう。

イバラキの甥や姪も 
イントネーションはイバラキだけど
「いがっぺよ」なんて言っているのを 
聞いたことがない。



言葉が 風土そのもの、というのは 本当だろうか。

茨城や会津では 精神が消えてしまうのだろうか。

歌舞伎も落語もない地域の言葉という風土は 
消失してしまうのだろうか。



地元で頑張っている人たちは 
たとえ 言葉は 都会風に変わっていても
そんなふうには 考えていないだろう。

風土も 言葉も 人と同じ、
時代とともに 多少は変わるかもしれないけれど
芯のところは 変わらない、
そう 断じてくれるかもしれない。

そう願っている私がここにいる。

茨城の短所を消してしまうと
長所も消えてしまうだろう。

言葉も、然り。

乱暴だとか 喧嘩してるみたいだとか言われるけど
変わってほしくないと思う、
この頃の私。