機心

機心

 

最近、鈴木大拙「東洋的な見方」(岩波文庫:青323‐2)を読んでいたら、「機心」という話が出てきた(p212)。ほとんど聞いたことのない言葉で、色々調べてみた。

 

広辞苑によると、「いつわりたくらむ心」、「機を見て動く心」、「活動を欲する心」となっている。大辞林によると、「機を見てはたらく心」「はかりごとをめぐらす心」となっている。

 

「荘子」の外編「天地」にある、はねつるべに関する話である。今からおよそ2000年前に中国では、既にはねつるべ(水などを上げる道具)が使われていた。

農夫が井戸から水を汲んで、畑にまいている。通りかかった人が「はねつるべという水を上げる機械がある。使ってはどうかと」と勧めると、農夫は首を振った。農夫は「機械に頼るものには、機心がある。この機心を自分はきらうゆえ、それを利用しないのだ」と言った。

 

また同じ本の、東洋の心(p198)には、スエーデンのラーゲルクイストと言う作家の作品の中に出てくる「神」は、ユダヤ系の神ではなく、平凡な一老樵夫が出てくる。一生を通じて、同じ仕事に精を出している樵の老人である。「何故に、こんな不平等で、悲苦の連続である世界を造ったのか」と詰問されるのに対し、何の造作もなく「それは自分の精一杯の仕事なのだ」と答えて、樵を続けている。

 

この二つの話を考えてみると、鈴木大拙禅師の思考は、辞典のような意味ではなく、人間の生きようとしての原点についての考察であろう。即ち、人生の中で、効率とか効果ではなく、自分の生まれてきた意義を得られるような、ただひたすら働くことを見つけることの意義であろう。

私が最初に指導を受けた師匠は、若いときに習字の先生になろうと一生懸命に練習していた。しかしある時どなたかの字を見て、「これは人格が出る。人格を磨かなくてはならない」と考えて、修行して悟りを得た。その後、商売に成功して財を成す。しかし自分は、お金の管理のために生まれてきたのではないと感じ、商売はすべて店員に譲り、「内観」の普及に努めた方であった。鈴木大拙禅師の考えと同じように思われる。

 

人生を考えるうえで、出だしを間違えるといつまでも目的にたどり着かない。機心が働くと、最終的には現代人が、不安に迷いイライラしている現状に行き着くように思われる。

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